6981 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡
「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」を鑑賞するため、千葉市美術館へ。
亜欧堂田善は、白河藩主松平定信から才能を見出され、エッチングの習得を命じられたのだという。
殿様から「エッチングの習得を命じられる」というのはおもしろい。
ただ命じられたのは40代後半で、画業に専念するようになったのは50歳にさしかかった頃だそうだから、かなり遅咲きの画家ということになる。
ちなみに、亜欧堂の画号は、定信が「アジア(亜)とヨーロッパ(欧)を眼前に見るかのようだ」と賞賛して与えた名前とのこと。
現代のように、さまざまな情報が入手できる時代と異なり、限られた方法で技術を習得しなければならないだけ、その苦労は大変だったことは容易に想像できる。
殿様の命を受けたことや、師匠にも恵まれたこと、そして何より、彼自身の職人気質ともいえるような研究熱心さもあって、さまざまな作品を生み出すことができたのだろう。
多くの作品を見ていると、試行錯誤を繰り返している様子がわかる気がする。
原則として撮影不可だが、一部の油彩と銅版画のみ撮影ができた。
それにしても、どれもあまりに細かくて単眼鏡を駆使しても見えづらいくらいだ。
展示のなかで気になったのが、「田善」ではなく「テンセン」とカタカナで署名されている作品が存在するということ。
今回それらも展示されていた。
これらは総じて製版技術が劣っているため、本人による作品ではないのではないかとも言われているそうだ。
たしかに、言われてみると、他の作品とはちょっと違う感じがする。
しかも、極めつけは、作品によって署名がめちゃくちゃなのだ。
・テンセン
・アワウテンセン
・アヲウテンセン
・アヲヲテンセン
殿様から賜った名前をこんなに遊んでいいとは思えず、おそらく偽物なんじゃないかと思ってしまった。
出身地の福島の須賀川に戻った後は、布に絵を刷って、半襟、たばこ入れ、帽子など”銅版画グッズ”を作って、須賀川名物になっていたようだ。
須賀川は何度か行ったことがあるが、広く知られるような観光地はないので、こうしたグッズによるお土産は、須賀川にとってもありがたいんじゃないか…なんて、勝手に思ってみたりする。
須賀川の功績として、忘れてはならないのが、田善が作成した銅板なども多数保存されていたということだ。
明治天皇による買い上げがきっかけだったそうだが、散逸しかけていた銅板を須賀川の人たちは集めて、大切に保存してきたのだそうだ。
江戸時代に、こうした銅版画家がいたということを知ることができておもしろかった。