7166 所蔵作品展 MOMATコレクション
今日は夕方から東京国立近代美術館の「所蔵作品展 MOMATコレクション」を鑑賞。着いたときには、もう18時近かったが、かなりの人が集まっていた。
そのほとんどが、ガウディとサグラダ・ファミリア展に来た人たちだ。
以前は、予約なしで鑑賞できたが、あまりの混雑のために今月に入ってから、完全予約制となってしまった。
この週末はすでに予約でいっぱいだった。
さて今回の用事は、東京国立近代美術館の所蔵作品の鑑賞だ。
こちらの所蔵作品の展示は、定期的にまとまって入れ替えられるので、毎回新鮮な感じで鑑賞できる。
今日最初に観賞した菊池契月《鉄漿蜻蛉》は、妙に印象に残る作品だった。
そこはかとなく感じる、どこか幻想的な雰囲気…。
後で調べてみたら、お盆のころの京都では、ご先祖さまがこのおはぐろとんぼの姿で帰ってくる…と言われているということで、おそらくそれをイメージした作品なのだろう。
こんな感じで、展示されている作品そのものも興味深いのだけど、自分の知らないことを発見するきっかけも楽しい。
日比谷に百貨店なんてあったっけ?…と思って調べてみると…当時神田にあった伊勢丹は現在の新宿に移転するが、他の候補となっていた日比谷を主張していた伊勢丹二代目社長の従弟が伊勢丹を退職して、日比谷に創業したのが、この「美松百貨店」だったそうだ。
「近代人の新百貨店」を掲げて、1931年(昭和6年)にオープンするも、1935年(昭和10年) にもう閉店してしまう。
美松百貨店をさらに調べると、なかなか興味深い話が見つかった。
1932年(昭和7年)日比谷公園で盆踊り大会が企画され、誰でも参加はできるが、条件として「美松百貨店」で、揃いの浴衣を購入する必要があったという。
そして、この盆踊りのために制作されたのが「丸の内音頭」で、その翌年、タイトル・歌詞を変更したものが「東京音頭」なのだそうだ。
もしかすると、美松百貨店がなかったら、東京音頭は生まれなかったかもしれない。
毎回来るたびに気になるのが、パリで成功を収めた時の作品とともに、必ず展示されてている藤田嗣治の戦争画だ。
独特の乳白色をふんだんに用いた柔なか雰囲気の作品描いてきた藤田が、その対極ともいえるような戦争を描くとき、一体どんな思いだったのだろう…と、いつも思う。
戦後、戦争責任追及の矢面に立たされ日本を去り、フランス国籍を取得し、最後まで日本には戻ってこなかったというエピソードを聞くと、いろいろ考えさせられる。
特に今日は、この2つの作品が並んでいたので、特に考えさせられた。
北野恒富の《戯れ》は、日本画でありながら、かなり大胆な構図で印象に残る。この作品のことを調べていたら、そうだ…以前も気になっていた作品も描いていたことがわかった。
それも映画のワンシーンのような感じで、思い切った構図の作品だった。