5174 富岡町を歩く(後編)
街の中心部に向かって歩いていく。
目立った瓦礫は撤去されて、新しい住宅の建設があちこちで始まっている感じだった。
そのうちのひとつかな…と思ってよく見てみると、1階部分が津波を受けたまま放置され、2階には洗濯物が干されたままにになっていたり、1階部分が流されかろうじて2階が宙に浮いた状態になっていたりする建物があちこちにあった。
建設中の住宅かと思ったら、震災以降放置されている状態だったり…。
復興作業のためか、簡易移動式トイレを積んだ軽トラックがかなりの台数あった。
特にあてがあるわけではなく歩いていくと、人の気配の全くしない中学校の敷地の脇に、モニタリングポスト。
先日オープンしたばかりの、ショッピングセンター「さくらモールとみおか」にやってきた。
まだ時間が早く、どの店もやっていなかったので、あとで寄ることにする。
さくらモールとみおかの前に、なんだかメルヘンチックな建物があって、なんだろう?と行ってみたら、かつての東京電力のPR施設「エネルギー館」だった。
廃炉作業支援者のための広報誌のバックナンバーなどが置かれていたので、ちょっと見てみた。
原発はこの地域の中心であり、”賛成”とか”反対”といったものとは、まったく違う存在なのだということが、紙面を通じて伝わってきた気がした。
実際、原発を生活の糧にしてきたひとたちの多くが、被災者でもあるという状況からすると、それも当然なのかもしれない。
(前略)これまで支えてくれた福島の方々に避難を強いることとなり、家どころか、生活まで奪ってしまったという、懺悔の思いでした。そして、”わが家”との思いで生活してきた福島第一原子力発電所が無残な姿になった悲しさ、悔しさもありました。
いろいろと考えさせられた。
すぐ近くにあったパチンコ屋も、やはりATOMという名前だった。
どうも見覚えがあると思って、あとから、調べてみたら、去年、ここを代行バスに乗っていた時に、偶然、車窓から写真を撮っていた。
だいたいアングルも同じだったが、これを見てもわかるとおり、ここはまったくの手付かず状態のようだ。
6年という月日は、振り返ればあっという間かもしれないが、やっぱり長い。
遠くから見ると違和感がなくても、近づいてみると、普通じゃないということが起きる。
駐車場に止められている車は、ずべてパンクしていたり、見た目はしっかりした建物でも解体を予定していたり…。
遠くから見たら、特に被害はなさそうな感じのホームセンターは、閉店したままだった。
駐車場の照明は完全に折れ曲がり、商品だった腐葉土は外装が劣化し破れてしまい、見るも無残な状態だった。
そういえば、あちこちに、防犯カメラがあった。
こういう状況での空き巣なんて、卑劣極まりない。
昨年、ここを通過したときには、まだ除染作業をしている真っ最中だった。
今はこうして川縁を歩けるようになったのだ。
しばらく富岡町を歩いてきたが、町民らしき方とすれ違うことはなかった。 かろうじて、ショッピングセンターの店内で、数人見掛けただけ。
6年も経つと、実際、そう簡単に戻るというのも難しいだろう。復興はやはり極めて難しい作業なのだ。
富岡駅前に戻ってきた。
駅の真正面の工事…よく見たら、「防空壕の埋戻し」とあった。地震や津波でも耐えた防空壕なのだったら、残しても良いんじゃないかな…なんて思ってしまう。