4523 今回の騒動で気づかされたこと
将来、この1ヶ月あまりのできごとを振り返ったら、一瞬の幻のように感じられるかもしれない。
2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会が公式エンブレムの使用中止を決めた。
新たなエンブレムはどのように、いつ決まるのか? 印刷物などで発生した損害は誰がどう負担するのか?といったことなど、問題は山積だが、ここまで来たら、使用中止は、当然の結果だったのかもしれない。
今回の一連の騒動を振り返ってみると、気づかされたことが、大きく2つある。
まず思ったのは、インターネットの凄さと怖さ。
良くも悪くもインターネットに振り回された感がある。
まず、佐野氏はインターネットを駆使して世界中から材料を集め(または、スタッフが集め)、自分の作品として発表した。
一方、いわゆる、ネット住民たちは、やはり、インターネットを駆使し、驚くほどのスピードで、次々と彼や彼の事務所の”パクリ”をあぶり出した。
佐野氏にしてみたら、ネット民たちが、まさかここまでの検索能力を発揮するとは思っていなかったのだろう。だから、”パクリ”は常態化していたわけで、彼の”デザイナーとしての死”を迎えることとなった。
まさに、ネット民の完全勝利だった。
彼らが、ここまで調べ上げることがなければ、このエンブレムを使い続けることとなったはずだ。
そして、もうひとつ。
佐野氏は「パンドラの箱」を開けてしまった…ということだ。
デザインの世界は、往々にして”パクリ”とはいわずとも、”モチーフ”にしたり、”参考”にすることは、よくあること。
これまでだったら、著名なデザイナーであれば、多少大目に見られていたこともあるし、それなりに信頼されていたはずだ。
しかし、今回のできごとで、その微妙な信頼関係は完全に崩れてしまった。
そもそも、モチーフや参考なんて、明確な線引きがあるわけではなく、見る人の感覚によるところも大きい。
しかし、今回の出来事により、今後は、よりシビアに”パクリ”かどうかの判断をされることが間違いなく増えるはずだ。
常に疑惑の目を持たれてしまうのではないか?という気がしてしまう。
そういった”目”にさらされる状況が、デザインの世界をどう変えていくのだろう?
萎縮してしまうのか? それとも、より健全な方向に向かっていくのか?
まずは、次の新しいエンブレム決定の過程で、変化の一端を見ることになるのかもしれない。