4161 「いじめるなら、代わりに私を」
いじめをかばった小3女児が、同級生の男女に跳び蹴りされたという事件があった。
教師は何をしていたか?というと、
「いじめを、からかいや遊びと見ていた」
…とのこと。
これは、いじめに気づかなかったときに、大人が使う常套句(テンプレート)だ。
このおなじみのフレーズを聞くたびに思うのだけど、そんなに微妙な違いなのだろうか?
担任が若いとか、新任かどうかなんて、まったく関係ない。
そもそも、からかいだろうと、遊びだろうと、その行為に問題があるかどうか?それだけの判断だと思う。
身体に危害を加えるのであれば、もうそれは遊びではないではないか。
僕には、“見て見ぬふり”をしているうちに、事態が沈静化するのを待っている、もしくは、いじめのターゲットが変わるのを待っているとしか思えない。
その背景には、教師には「面倒なことに関わりたくない」という気持ちあって、それが、いじめではなく、からかいや遊びに“見えて”しまっているのではないだろうか?
おそらく、たいていの場合は、大きな問題にならず済んでいるのだろう。
しかし、この様子を見ていた小3女児は違った。見て見ぬふりせず、果敢に挑んでいった。
「いじめるなら、代わりに私を」
同級生をかばったたことによって、本当に跳び蹴りを受けたとき、彼女は、どんな気持ちだっただろう?
記事を読んでいるうちに、思わず涙が出てきた。
いじめを止めた女児は、その後登校しなくなったものの、謝罪を受け入れ再び登校しているというが、心に受けた傷は、決して小さくないはずだ。
もともといじめを受けていた女児も、いじめをしていた側も、そして、その様子を見ていた同級生たちは、ここから何を学んだだろう?
いじめの根絶は、残念ながら難しいと言わざるを得ない。
だからこそ、そのフォローがものすごく大事だと思う。
見て見ぬふりはもってのほかではあること、“身を挺する”という手段を取る以外にも、いじめを解決する手段はあるとか、学ぶべきことはたくさんある。
「面倒なことには関わるべきではない」ことを示したこの担任は“反面教師”であり、そして「面倒なことにあえて自ら飛び込んだ」女児こそ、大切なことを教えてくれた“教師”だと思った。