2578 “凄いこと”と“些細なこと”

物思いに耽る(雑感)

ここしばらく落ち込んでいた。それは近年稀に見る落ち込みようだった。人間誰しも、気分の波はあるのだから気にすることもないのだろうが、今回はひどかった。

些細な心配や気になることが大量に積み重なってしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまった状態になってしまった。

そして、ふと読んだ、フリーペーパー“R25”巻末のコラム「結論はまた来週」(高橋秀実)で書かれていたことに、ハッとさせられた。

まったく嫉妬せず、他人のすごさばかりを自慢する筆者の従兄弟に「従兄弟自身はどうなのか?」と尋ねたら、「オレは息してるだけ」と答えたという。続けて、筆者はこんなことを言っていた。

生きると言うことを10とするなら、息をしていることが9.99で、それ以外は残りの0.01ぐらいではないだろうかと感じるのである。「生き甲斐」やら「自己実現」「自分探し」など盛んに言われるが、それらもオマケのようなもの。その証拠に息をしていなければ生き甲斐もなにも持ちようがない。(…中略…)これまでこの世に生まれてきた人は数限りなくおり、そのほとんどは死んでいる。今、息をしているのは、ほんのわずかの限られた人だけなのだ。

「どこに価値基準を置くのか?」「どういった物差しを使うのか?」によって、判断がまったく変わってくるということだろう。人は(…というか自分は)、とかく当たり前のことに気付かず、ちょっと変わったことや目立つこと、人より抜きんでていることばかりに気をとらわれがちだ。

ふと久しぶりに箱根へ行って、露天風呂に入った。

空を見上げた。

湯に身を任せ、顔や肩に冷たい風を感じながら、木の枝や葉、その隙間から雲が見える。自然のスケールから見たら、あまりに自分の“ちっぽけさ”を実感したような気がした。

ふと、先日読んだ本の中でこんなことが書かれていたのを思い出した。

たとえば、銀河がどら焼きだったら?―宇宙比較講座

約137億年ともいわれる宇宙の歴史を1年で換算すると、人類の祖先が登場したのは一年が終わろうとしている12月31日21時半ごろで、四大文明が栄えていたのは23時59分43秒くらいに相当するらしい。人間の一生を80年とすると、わずか0.185秒に相当するのだそうだ。自分が苦労している時間なんて、小数点以下に“0”をいくつつけても足りないくらいの時間でしかない。

息をして、こうして生きているだけでも、とても凄いことだ。しかし、その上で繰り広げられていることは、実はかなり些細なことばかり…なのかもしれない。

息をしていることを過小評価し、日々の生活を過大評価していた僕は、自身を追い込みすぎていたのかもしれない。

正直言えば、まだすっきりしないところもあるにはある。
けれど、まずはちょっと気分を切り替えて、少しずつ元の自分を取り戻す“心のリハビリ”をしよう。そして今後は“柔軟な物差し”を持てるよう努めたいと思う。なんとなくできそうな気がしてきた。

Posted by ろん