7380 「美術館の春まつり」

博物館・展覧会,芸術・デザイン

美術館の春まつり
美術館の春まつり

東京国立近代美術館で開催中の「美術館の春まつり」へ。毎年開催している春をテーマにした企画で、去年に引き続き鑑賞。

こうした美術展と春という季節は、相性がいい気がする。

なんとなくだけど。

たとえば冬っぽい風景があったとしても、どこか春を感じられるところがあれば、それも春のテーマに含まれるし、多少季節が進んでも、ある程度は“春”の範疇でも、それほど違和感ない感じがする。

秋とか夏となると、けっこう季節がピンポイントになってしまう気がするのだ。

これはまったくの個人的なイメージだ。

ということで、春らしい作品が並んでいる。

東京国立近代美術館は、収蔵品展では、写真撮影が自由なのとわかりやすい解説がありがたくて、嬉しい。

最初の展示である、川合玉堂《行く春》は、国の重要文化財。

川合玉堂《行く春》
川合玉堂《行く春》
この色の岩絵の具の原料
この色の岩絵の具の原料

8m近くの大作で、秩父長瀞を描いているそうだ。

作品全体を印象づける独特な緑色は、孔雀石というものを砕いた岩絵具ということで、その実物が展示されていた。

こんなゴツゴツしたい石から、このような見事な作品になるというギャップが、なんだか面白く感じた。

パウル・クレー《花ひらく木をめぐる抽象》
パウル・クレー《花ひらく木をめぐる抽象》

パウル・クレー《花ひらく木をめぐる抽象》は、モザイクのような四角形が並んでるだけで、なんとなく“春”を感じさせるから不思議だ。いやそう思い込んでいるだけかも。

続く展示室では、菊池芳文《小雨ふる吉野》、日高理恵子《樹を見上げてⅦ》が向かい合って並んでいる。

その間には、座れる畳が置いてあって、座ってどちらの作品も鑑賞できる。

菊池芳文《小雨ふる吉野》
菊池芳文《小雨ふる吉野》
日高理恵子《樹を見上げてⅦ》
日高理恵子《樹を見上げてⅦ》

今日みたいに、あまり天気も良くなくて、あまり春を感じられないくらいの寒さの日に、こうしてゆっくりと春を感じられるって、なんて贅沢なのだろうと思う。

常設展示のほうも気になる作品はいろいろあった。

藤田嗣治《血戦ガダルカナル》
藤田嗣治《血戦ガダルカナル》

戦争絵画のコーナーは、いつも考えさせられるが、なかでも藤田嗣治の作品は、彼のパリで描くのとはまったく違う重苦しい雰囲気があって、いったいどんな思いでこれを描いていたんだろう…と思う。戦場でこれほどの作品を作り上げているのに、戦後フランスに帰化してしまうのだから、彼の日本に対する複雑な思いは察するに余りある。

海老原 暎《殺人事件現場見取図(モテルから女性の死体)》
海老原 暎《殺人事件現場見取図(モテルから女性の死体)》

新規収蔵品として紹介されていた。事件現場の見取り図を淡々と模写したもののようだ。

開いた新聞紙をただ模写するという、個性を抑制した油彩画を描いていた海老原は、紙面の中の事故現場の見取り図に目を留めます。職人による、絵ではあるが作品ではない手描きの図。彼女は30の図を拡大複写し、「見取図集」として印刷しました。おのずと事故にまつわるネガティブな事象ばかりですが、こうして並ぶと情報伝達に徹するドライさと、略図ならではのユーモラスな味わいが、ニュースを読むのとは異なる視線を誘います。

これって、どこか、警察で公開される押収品の陳列の場面を思い出す。

海老原 暎《事故現場見取図集》
海老原 暎《事故現場見取図集》
海老原 暎《事故現場見取図集》
海老原 暎《事故現場見取図集》
出光真子《主婦の一日》
出光真子《主婦の一日》

1977年(昭和52年)に作られた作品で、テレビに映し出された目が、じっとこちらを見つめている。

なんとも不思議な場面だけど、解説にはこんなことが書かれていた。

「私は見る」という語義を持つvideo(ヴィデオ)装置は、「見られる」ことを表すことができる――ここに、出光真子の作品の核心があります。出光は家庭と女性を主なテーマに、社会を批評する映像作品を発表してきました。本作では、出光自身が演じる主婦の生活を、映像の中の目が見つめ続けます。この不気味な目は、「理想の主婦像」を押しつける(主婦自身を含めた)世間のまなざしであり、ひいては女性が一方的に浴びてきた視線であるでしょう。

これって、現在の監視カメラとか、SNSみたいにも思えてくる。

過去の現代アートが、未来を示唆しているというのを見つけるのは、とてもおもしろい。

Posted by ろん