日本を蝕む「極論」の正体/古谷 経衡

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タイトルを見ただけで、たしかに!と思ってしまった。

「外部から監視や点検がなく、競争のない閉鎖的空間」において、極論が蔓延り、異論を認めなくなる…という著者の考えは、まったくその通りだと思う。

本書で取り上げた「教育現場」、「日本共産党 」、「 TPP亡国論 」、「 バブル賛歌 」、「 地方消滅 」、「 プレミアムフライデー 」、「 日本会議黒幕説 」、「 男系・女系 」といった項目は、立場や考え方によって、大きく意見が割れる話題ばかりだが、著者に同調できるところが多かった。

「外部から監視や点検がなく、競争のない閉鎖的空間」として最初に取り上げられた「教育現場」

深刻なケガにつながることもある組体操がいまだに行われているとか、「二分の一成人式」といった”奇習”が行われたり、いじめの問題にしても、一般的な世論からかけ離れた特殊な空間であるがゆえに起きているのだとすれば、合点がいく。

他の事例でも、その構図はそっくりだし、そうした閉鎖的空間であること自体に意味を持っているのでは?…といえそうな話もあり、興味深く読んだ。

しかし…本書を読み終わったあと、書評を見ていたら、著者の意見こそが”極論”ではないかとあったのを見て、ハッとさせられた。

僕は、そんな”極論”に対して、無意識に乗っていたかもしれないのだ。

結果的に極論になってしまうことより、本当に怖いのは、自分の考えが極論であるかどうか気付かないことではないだろうか。

「外部から監視や点検がなく、競争のない閉鎖的空間」に身を置いているつもりはないのに、無意識のうちに”極論に同調”している状況は、本書の序章に書かれていた「電子時代の囚人たち」のように、インターネットで得る情報が、自分の見たい情報に偏り、結果的に、無意識のうちに、自ら閉鎖的な空間を作り出しているのだ。

その一方で、著者が、かつてTPPに対して実はかなりの”極論”を述べていた事実などを知ることができるのも、インターネット社会の良さ?ともいえる。

インターネットで得られる情報との距離感をどう保つかということを考えさせられた気がした。

Posted by ろん