原子力報道/柴田鉄治

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原子力報道

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柴田鉄治
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福島第一原子力発電所の事故は、いまでも収束したとはほど遠い状態だし、全国の原子力発電所の再稼働も世論の反発もあり、その道筋は不透明だ。

一時期に比べると落ち着いたが、世論の方向性は原発反対、もしくは縮小方向へ…というのは間違いないだろう。

しかし、いまではちょっと考えられないが、かつて世論も、産業も、大学も、原子力に対して、バラ色の未来を描いていた時代があった。

1950年から1960年代にかけて、原子力というものが“ブーム”と呼ばれるような状況とだったという。

そういえば、原子力をエネルギー源として動く、鉄腕アトムが登場したのは、1950年前半だったな…なんてことを思い出した。

日本初の原子力船むつの進水式(1969年6月)に、皇太子夫妻(現天皇皇后両陛下)を迎えたというエピソードが紹介されていたが、世論が割れるような行事に皇室が参加することは絶対にあり得ない…というのには納得。当時の状況をよく表している。

賛成一色だった世論は、アメリカのスリーマイル島事故(1979年3月)以来、その割合を徐々に減らし、チェルノブイリ事故(1986年4月)で、完全に反対派が逆転する。

かつて新聞記者だった著者が自戒を込め、原子力報道で、報道(メディア)がどのような失敗を重ねてきたかを5つにわけ検証する。

  1. 原子力の特異性を強調しなかった
  2. 推進派よりも反対派に厳しかった
  3. 原発批判は“原子力ムラ”に届かなかった
  4. 原子力行政をチェックできなかった
  5. 発表依存で「何が起こったのか」に肉薄しなかった

日本にとっての原子力との出会いは、原子爆弾だった。

にもかかわらず、多くの日本人は「軍事利用は悪、平和利用は善」と見事に割り切ってしまったという歴史はまぎれもない事実だ。

しかし、原子力を積極的にリードしたのはメディアだった。日本の原子力の父と呼ばれた正力松太郎は読売新聞の社主だったし、それがよくわかるエピソードが、1955年( 昭和30年)の第8回新聞週間の標語だ。

新聞は世界平和の原子力

一瞬、目を疑うというか、どういう意味だかわからなかった。

前年(第7回)の新聞週間の標語は、「新聞は正しい政治の見張り役」、翌年(第9回)が「新聞に今日もいきてる民の声」 と並べてみると、いかに原子力に傾倒していたかがわかる。

また、1976年(昭和51年)、原発反対派を徹底的に批判する朝日新聞の連載記事が掲載され、抗議は殺到したという話は、原子力の未来を信じ、称賛していたメディアが、自らの面目を保たせたいがために、辻褄合わせしたようにすら思えてしまう。

ビックリするくらいのメディアの“手のひら返し”は、今に始まったことではないが、こうした歴史を振り返ると、あらためてメディアを鵜呑みにすることの危険を痛感する。

Posted by ろん