フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い/開沼 博

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開沼 博
幻冬舎
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東日本大震災から、もうすく2年。

そして、あの福島第一原子力発電所の事故からも2年

あのとき、ライブカメラを介して事故の様子を見守っていたのが、ずいぶん前のように感じるが、まだ2年しか経っていない。(人によっては、“もう”2年と思われる方も多いだろう)

筆者は、この事故が起きる前から、福島に通い、取材を重ねていた。

その自負もあってか、表現は鋭く、ときには、かなり辛辣な言葉も並ぶ。

この文はかなり刺激的だった。

自分お外に敵を作ることで問題の「ガン」を発見した気になる。それを叩き潰そうとするポーズさえとれば問題を解決できる。とりあえず、「悲劇」に共感しておこう。そして、「希望」を出しておこう。それで「知識人」としての「いい仕事」完了!(p.46)

当事者でもないにもかかわらず、我が物顔で当事者の代弁者ぶりながら、「弱者」を利用しているだけで、結局、何にも解決せず、何にも変わらない。

そして、国民全体に目を向けてみれば、瓦礫の受け入れで激しく対立する構図からは、解決の糸口が見えないように感じる。

この背景を、筆者は、瓦礫の拒否も受け入れもいずれも「善意同士のぶつかり合い」という見方をした。

瓦礫の受け入れ拒否をするのは、(自分を含め)地元に対する善意であり、受け入れを求めるのは被災地に対する善意である。

そして、他者の抱える苦痛に対して、人は「善意」をもとにともに戦えるが、いざ自分自身もその問題の「当事者」になりかけた時、「善意」は分裂し、それが決して一枚岩でないことが露呈する。

明確な「善意と悪意のぶつかり合い」ならば目指すべき道筋は見えやすい。しかし、そうでなはく「善意同士のぶつかり合い」に走った分裂線を上手くつなぐ方法を私たちはまだ持ち合わせていないというのだ。

ぶつかり合う正義は、「科学論争」ではなく、「宗教紛争」として捉えた方が理解しやすい状況が続く。

「自らの考えが唯一最上のものではないことを自覚し、社会に複数の「信心」が存在する状況を認め、その前提で議論を始めること」(p.29)という、ごく当然の解決手法が挙げられていたが、結局、解決の奇策なんてないのだろう。

本書で、一番考えさせられたのは、エドワード・サイード「オリエンタリズム」で、西洋が非西洋に向ける眼差しは、支配する側が支配される側に対する眼差しと重なるという話の引用の部分だ。

支配される側はしばしば女性になぞらえ構造があり、優しくて、穏やかで、美しく、堪え忍ぶといった女性的イメージを押しつけられているという。これは、眼差す側の極めて自分勝手な排他性・暴力性と表裏一体であり、「女性的」な振る舞いから外れることは許されないという指摘には、いくつもの合点のいくニュースや出来事を思い出した。

そして、突き詰めれば、「中央」と「地方」との対立という構図に収斂するという印象を持った。

日本テレビ「ザ!鉄腕!DASH!!」で描かれたDASH村は、中央にとって都合の良い地方であったのではないか?という指摘も、そういう面はあるだろうと。

宮崎駿が国民的映画として人気を博すのも、根本の部分は同じ理由かもしれない。

そんな「田舎」という理想郷に東京の人たちが殺到し、理想郷を目指そう!と語りかけたところで、「原発を持ち続けないとムラが死ぬんで原発を持ち続けます」という話で終わってしまう。話が決して噛み合わないのだ。

もちろん原発のある生活が、“なりたかった世界”ではなく、結果的にそうせざるを得なかっただけだし、別に交付金が欲しかったわけではない…という思いはあるだろう。しかし、これまで原発がなくても生きていけるような努力をしてきただろうか?ということは問われる。

一方、東京をはじめとする「中央」は、自分たちが勝手に作り上げてきたイメージと現実のあいだを埋める作業をしなければならないという。

自分たちが、もっとも大事にしなければならないのは、反対意見にも耳を傾け、現実を見ること、現実を知ること。それが難しいなら、思いを馳せることだろう。

一番怖いのは、理解せぬものを理解した気になる、変わっていないものを「変わった」「変わるんだ」と騒ぎ立てる、そして「押さえ込んだ」つもりになって忘却する。

それが“支配する眼差し”に加担してしまう…という著者の指摘は、ハッとさせられた。

Posted by ろん