3662 西日暮里から南千住にかけて歩く

街歩き

今日は、西日暮里駅から南千住駅方面に歩いてみた。

なぜこのあたりを歩くことになったのか?といえば、駅からハイキングがきっかけなのは、もちろんのことだ。

来るたびに圧倒される西日暮里の立体交差を通り抜けると、すぐに住宅街になる。

すぐ左隣を、常磐線と貨物線が並行して走り、ときどき隙間から電車や機関車が、ちらちらと見える。

日光街道(国道4号線)を歩いていくと、ちょっと古さを感じさせる建物が…

都電荒川線の前身である、旧王子電気鉄道の本社として使われていた建物で、1927年(昭和2年)に建てられた。

現在は写真館として使われている。

日光街道を歩いて行くと、突然、巨大な観音様が現れた。

駅からハイキングのコースのポイントにもなっている円通寺だった。

坂上田村麻呂によって創建されたということだったが、坂上田村麻呂って誰だったけ?教科書に出てきた記憶はあるのだけど…。

このくらいの規模の観音様は、それほど珍しくない気もしたが、マンションのベランダみたいなのが周りにあるし、そもそも、巨大な観音様を、ここで見掛けると思っていなかったので、けっこうビックリ。

境内には何体もの観音様や石像が安置されていたが、ある石像の視線の向こうが気になった。

車のことはよくわからないけど、おそらくは、いい車じゃないかと思う。やっぱり、お寺の関係者所有だよなぁ…なんて。

かつて上野の寛永寺にあった黒門が移築されていた。

旧幕府軍と新政府軍の間で行われた戊辰戦争のひとつ“上野戦争”の際、被弾した跡が生々しく残っていた。

円通寺を出てちょっと歩いたところで、さっき見た、観音様を脇から見ることができた。

正面から見たら、手すりが、なんだかマンションのベランダのようだったが、脇から見ると、ますますよくわからない感じだった。

 

 

しばらく歩いて、常磐線や日比谷線の電車が行き交う高架橋が見えてくると、南千住駅はすぐ近くだ。

回向院(えこういん)にやってきた。

手前には「吉展地蔵尊」との看板が…。

1963年(昭和38年)に起きた、吉展ちゃん誘拐殺人事件。犯人の自供により寺の境内で遺体が見つかったということだったので、てっきりここで発見されたのかと思ったら、さきほどいた円通寺だったそうだ。

この回向院は、小塚原刑場に隣接していて、ここで罪人の解剖に立ち会った杉田玄白・前野良沢らが、オランダで発行された本を翻訳し、あの「解体新書」が作られたという。

その記念碑?や、安政の大獄で処刑された、吉田松陰やねずみ小僧の墓などもあり、あまり広さはないが、見どころの多いお寺だった。

JR南千住駅西口は、すっきりと駅前広場ができていたが、東京メトロ日比谷線に挟まれた側は、ちょっとごちゃごちゃしていて、わかりにくかった。

それでも、つくばエクスプレスが通ったおかげからか、全体的に新しく、こぎれいな感じだった。

そんなごちゃごちゃしたところを過ぎて、駅の東側に出ると、今度はそらが広い。

隅田川駅(貨物駅)だ。

コンテナ貨物列車がゆっくりと通り過ぎていった。

チェックポイントだった南千住駅を過ぎれば、あとはひたすらゴールを目指すだけだ。

ふと、気になる光景が…。

マンションと道路の隙間にあった、古い木の門。門を開いてもマンションの壁だし、門としての意味はまったくない状態だった。

古そうで、なにか意味ありげではあったが、とくにいわれは書いて折らず、謎のままだった。

日暮里駅を通り過ぎ、夕焼けだんだんへ。

ここはいつ来ても混んでいる。

よみせ通り商店街にあったゴール受付をして、駅からハイキング終了。

西日暮里駅に戻る。

途中、富士見坂を歩く。

都内で珍しくその坂の由来通りに、富士山が見える坂として有名だったが、もうすぐ、遠く、新大久保付近にマンションが建つことで、富士山が見えない平凡な坂になることが確定している。

仕方がない…とも思うが、決して気分のいい話ではない。

今日は意外な発見も多かったが、戊辰戦争といい、吉展ちゃん事件といい、今日の晴れ晴れした天気に比べて、ちょっと重い気持ちになる街歩きだった。

Posted by ろん