3579 いじめた奴出てこい!
いま領土問題がクローズアップされてるせいか、多少、例のいじめの問題が沈静化した感があるが、もちろん、これまでのところ、事態は何も進展していないように思う。
そんななか、最近、特に新聞などで、よく目にするのが、いじめられている子どもに対するメッセージだ。
そして、そういったメッセージを寄せる人は、いじめられた経験を語っていることも少なくない。
これはこれでいいのだけど、どうしても気になることがある。
いじめられた人数よりも、もっと多い人たちがいるだろう?
いじめをしていた人たちだ。
いじめた側の立場にいた人たちの声が、ほとんど聞こえてこない気がする。
いじめる側と、いじめられる側を比べたら、圧倒的にいじめる側の人数が多いはず…にもかかわらず、いじめられる側の声ばかり聞こえてくるのは、どういうことだろうか。
いくつか理由は考えられる。
1.いじめられた記憶は残るが、いじめた記憶は残らない
2.いじめた記憶があるが、カミングアウトできない
3.そもそも、いじめてたわけではない(自分の行為はいじめではない)
どれか…ではなく、おそらく、どれもあてはあまるのではないか?
いじめは、当然だけど、いじめる側といじめられる側がいて成立する。
なのに、いじめられた側だけが訴えているのは、どうにもおかしい気がするのだ。
いじめられた側だけでなく、いじめた側が声を上げ始めたとき、はじめて、いじめを取り巻くの世界が変わってくる…そんな気がする。
…と…。
そんなことを言うだけでは、フェアではないと思うので、僕自身の経験についても書いてみようと思う。
僕自身…いじめられたことはあるし、いじめを止めたことだってある。
一方で…
いじめを、見て見ぬふりをしたこともあった。
小学校の教室で、僕が見たあの光景…一人の女子に対して、間違いなく嫌がるようなことを複数人でしていたことに、僕は気が付いていた。
あれは、いじめだった。
その瞬間、いじめられていた女子と、わずかに目が合ったときのことは、いまでも忘れられない。
僕は見て見ぬふりをしたのだ。
その後、卒業式の直前だったか、このときとは別のときに、いじめを止めたことについて、彼女からお礼を言われたものの、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
見て見ぬふりをした…
自分自身のいじめられた経験から、「面倒なことに巻き込まれたくない!」と直感的に思って、それを行動にしてしまった。
当然ながら、これもいじめに荷担したに等しい。
このときのことは、いまでも胸が締め付けられるようなつらく苦しい思い出として、心の奥底に、刻み込まれている。