絶望からはじまる患者力/若倉雅登
いくら健康で過ごしていたとしても、誰もが病気になりうる。
そんな病気のなかでも、視覚障害というのは、特別の事態であると、本書のまえがきに書かれていた。
死も訪れないし、病気が治ったとしても視覚障害は残るから、以前のような生活ができない。
治らない視覚障害を抱えて長い人生を歩まねばならないという難行苦行が待っているということだ。
著者は眼科医。
診察室で出会った視覚障害となった6人の半生を紹介する。
そもそも、視覚障害という病気は、自分も含めて、社会の理解が不十分だろう。
あらためて考えてみると、見えにくい…読み書きができない不自由さは、例えば手足の不自由さとはまったく異質のものだ。
また、これまであまり意識したことがなかったが、視覚障害を持つ人の状態はさまざまで、移動や行動すること自体問題ない人もいる。
そして、これは当然だが、頭脳労働はまったく問題ない。それどころか、見えにくい分、考えたり感じたりする精神活動は活発になるという。
登場する6名の半生は、とても読み応えがある。
淡々とした表現の中に、患者の苦難を乗り越えようという強い意志と、著者の思いが散りばめられている。
特に、視覚障害という当事者になったからこそ言える言葉には、感動した。
「自分はとても幸せな人生を送っていると思う。だって、62歳までの見えた人生と、それからの見えない人生と、二つの人生を歩ませていただいているのですから……」(p.70)
「生きにくいことはない。むしろ扉はあちこちにあるんです」(p.71)
「私は格好のいい盲人になりたいんだ、先生」(p.98)
自らの境遇を受け入れると、人は強くなれる。
読んでみて思ったのは、もちろん“患者力”が大事なのは言うまでもないことだが、同時に、患者の支える周囲の力も、とても大事だということ。
病気を抱えた人は、病気になった人の苦しみは分からないだろうが、病気を見守る人の気持ちは、その立場になってみなければ、本当のところは分からない。
だから、できるだけ寄り添って、相手の気持ちに近づいて行く努力をし続けなければならないと思う。
あらためて周囲を見回せば、日本は健常者中心の社会と言わざるを得ない。
障害を持つ人たちは、健常者と何ら変わることのない“ごくふつうの人たち”だ。
好きで障害を持っているわけではないのに、なぜ苦労していかねばならないのか?
もっと言えば、健常者の誰もが当事者になる可能性があるのに、彼らの存在に、なんと無頓着なことか。
現状を憂うのは簡単だが、何にも変わらない。
だから、このまま放っておくのではなく、少しでも少しでも障害者と共生できる社会になるよう、自ら声を上げたり、力になれるよう行動していきたいと思った。