1619 ふれあい・つきあいに関する一考察

定点観察

 なんとか毎日、龍的定点観察を書き続ける。大した話も書けないのに、コメントまで寄せてくださる皆さまがいる。考えてみれば、コメントを書いてくださるということは、僕のために、読んでくださる皆さまの貴重な時間を、わざわざ使ってくれているということなのだ。とても嬉しいことだ。毎日のことだから、だんだん日常のことのように思えてしまいがちだけれど、これは本当にありがたく感謝すべきことなのではないかと思う。

 インターネットやメールの世界ばかりでなく、現実の世界でも同じようなことが言える。思いがけず嬉しい言葉を掛けてくれれば、やっぱり嬉しい。自分にとって信頼できる人がいたり、逆に自分を頼りにしてくれる人がいたり、自分と心が通じているな…と感じれば、大げさかもしれないけど、ここに自分のいる意味や価値、アイデンティティの存在を噛みしめることができる。僕が僕であることを認識する瞬間だ。さらに相手が自分の気持ちと重なったり共感する部分が多いならば、嬉しさ、楽しさは大きくなる。

 ただそれを過度に期待するようになってくると、ある種の”中毒”と言える状態に陥ってしまう可能性はある。インターネットやケータイは言うに及ばず、現実世界だって同じ。まだそういうことほとんどないけど、自分にとって好ましい反応を期待するばかりに、自分の意に反した行動ばかりしてしまうということがあるとすれば、それは中毒といわれても仕方がない状態と言えるのではないだろうか?

 中毒とまでは言わないまでも、「できることならば、この瞬間がずっと続くといい…」なんて思ってしまうことはある。また逆に「いつか、この状態が消えてしまうのだろうな…」なんて不安に思うこともある。冷静に考えれば、当然いいことが続くことなんてありえないことなのだ。残念だけど、人間の生きている時間に制限がある限り、組織に所属している限り、いずれは終わってしまう。「≪つきあい≫の心理学」(国分康孝著/講談社現代新書)によれば…

 「人とのふれあいがあるにこしたことはないそれがあれば人生が豊かになることは間違いない。しかし、なければないで、自分なりに生きていける」という淡泊さ、いさぎよさ、心意気。これが健全なふれあいを持つための条件である。(p.66)

 人生はプロセスであるとは、生きている瞬間瞬間を楽しめ、人生の瞬間は好結果を得るための手段だけではない。(p.102)

 なるほどな。執着しない淡泊さ、いさぎよさ、心意気。好結果をもたらすためだけに生きているのではない。その瞬間を楽しむという生き方…。ネットでも現実でも、無理しない程度に意識してみるか。

Posted by ろん