1571 常識という砂上の楼閣

定点観察

 「そんなの常識!」という言い方は、ごく自然に出てきそうだけれど、どうしてそれが常識といえるのだろう…とふと考えてみる。
 考えてみれば、常識なんて誰からも教わったことなどない気がする。正確に言えば「これは常識だから覚えておくように」という言い方では教わっていない。おそらくこれは常識だろうな…と思えることの数々は、日常生活を過ごす中で、家族からの注意や、他人の視線、その場の雰囲気から少しずつ会得していったものだ。
 つまり、そうした経験の延長線上にある以上、誤差があるのは致し方ない。そういう意味で、各人の持つ常識は、悪い言い方をすれば、「独断と偏見に満ちた」ものとなる。そんな独断と偏見に満ちた常識の上に社会が成り立っていると考えると、なんだかとても不安定な…砂上の楼閣にさえ思えてくる。

 また、さらにここでいう「社会」が、どれくらいの範囲のことまでを指すのかによっても、意味が全く変わってきてしまう。地球的規模で見た日本なのか、アジアの中での日本なのか、日本の中での東京なのか、経済界の中での会社なのか、会社の中の部署なのか…?
 「それが常識である!」と叫んでみたところで、所属している組織や集団の中において非常識であれば、常識という認識などすっとんでしまうことは残念ながら往々にしてある。どこに基準をおいているかによって、常識は変わってしまうのだ。

 自分が、物事に対して「理不尽なこと」だと思ったり、その理不尽なことに対して、周囲の誰もが異論を唱えない状態が続くと、自分の持つ常識に自信をなくしたり、疑うようなことにもなってしまう。
 でも、そもそも常識など独断と偏見の上に成り立っていると考えるのならば、そうした曖昧な基準の上に成り立つ周囲の常識などを気にする必要などないという結論が導き出せる。どうせ独断と偏見に満ちた常識でしかモノが言えないのであれば、堂々とその常識を振りかざしていけばよいのだ。

Posted by ろん