科学的とはどういう意味か/森博嗣
幻冬舎
思い起こせば、高校時代は「理系」クラスだったが、大学受験は文系学部ばかりだった。
いわゆる「文転」であった。
理由は理系の勉強についていけなかったということが大きい。
そういった経緯もあって、理系の分野には少し抵抗があるものの、理系的な考え方や合理性には嫌いじゃない。
本書では、科学というものが、異常なまでに敬遠されている現状を憂いた著者が、科学から目を背けることは自分自身にとって不利益なことであり、そういう人が多いと、社会全体にとっても危険だと指摘する。
「感想ばかりが溢れている」と著者が指摘するテレビの報道は、僕も、東日本大震災関連のニュースを見ていてそう感じた。
具体的な数字では判断の基準を持てない 多くの人は、そこにある対象を見て、「どう感じればいいのか」、「どう考えれば良いのか」、「どう対処すれば良いのか」ということを、“考えたくない”のだ。考えるのが面倒なのだと指摘していたが、ほんとにそうだと思う。
テレビは専門家にさえ、感想を求める。感想を聞いたところで、何の意味も持たないのに。専門家の価値は、専門的な見地からデータを示し、それの評価と解説をすることにあるわけで、その人がどう思おうと、事態は何にも変わらないはずだからだ。
印象的だったのは、いま科学離れを深刻に考えているのは、科学が好きな人たちであり、彼らが「科学の楽しさを知ってもらいたい」という言葉に「楽しさ」を押しつけているように感じるというというところ。
言われてみれば、そういう気もする。
最初から毛嫌いするのではなく、科学に対して、ほんの少し関心を持って、ほんの少し勉強をすれば、自分の身を守ることにつながる…という合理性は十分に納得ができる。
でも、「科学の楽しさを知ってもらいたい」という気持ちも大事にしたいなという気もした。
科学に対して聞く耳を持たない人には、こういう思いって通じないのかな?