1840 矢

定点観察

久しぶりに「矢ガモ」という言葉を聞いた。

不忍池に矢ガモ3羽=頭などに刺さる-東京・上野

 東京・上野公園の不忍池で、頭などに矢が突き刺さったカモが3羽見つかったことが20日、分かった。矢はいずれも長さ約7センチの金属針で、2羽は保護され矢を抜かれたが、1羽はまだ池にいる。警視庁上野署は悪質ないたずらとみて調べている。 

さすがにモニュメントには矢は刺さってないもう10年以上も前になるのだが、初めてこの「矢ガモ」という言葉が生まれたのは、うちの近所を流れる石神井川だった。その事件を後世に伝えるために、こんなモニュメントが作られている。

こうした事件を見聞きするたびに思う。矢を撃つ人間は一体どういう神経しているのだろう…と。最近こうした動物虐待事件が後を絶たないし、たまたま今回はカモだが、人間に対しても似たような事件は少なくない。こうした攻撃を受ける立場は、どういう思いをするのだろうか? 痛いだろう…つらいだろう…。

普通の気持ちを持っていれば、本当に酷い行為だということはすぐにわかる。
特に矢の存在は、客観的でわかりやすい。誰もがこの矢を見れば「なんて酷いことをするのだ」と思う。矢を実際に撃った人間を除いて。

でも、ふと思った。

このようなカモに突き刺さった矢を見たら誰もが酷いと思うが、もしこれが当事者にしか見えない“矢”だとしたらどうだろう。例えば「言葉」や「態度」といったものは見えない“矢”なんじゃないか?という気がしてきたのだ。

これだって、本物の矢と同じように撃つ側は酷いとは思っていない。撃たれた側や“矢”が見えた者だけが酷いと思うのだ。もしかすると、僕は知らずに見えない“矢”を撃っていたのかもしれない。そう考えると、心当たりは…ある。

相手の気持ちに立って物事を考えることは、自分の中では当然のことだと思っている。けれど、自分に正直なあまり無意識に“矢”を撃ち放ち、相手を傷つけてしまってたこともあったと思う。

どうしたら、きちんと“矢”が見えるような生き方、考え方ができるか…ちょっと重いテーマかも。

Posted by ろん