帝国ホテルと日本の近代/永宮 和

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昨年、フランクロイド・ライトが設計した帝国ホテル旧本館(ライト館)が竣工してから100年の節目を迎えたということで、それに関連イベントや企画などをいくつか見に行った

本書は、たまたま図書館で見つけた感じだけど、そういうこともあったので、読んでみることにした。

日本を代表する高級ホテルである、帝国ホテルの誕生からフランク・ロイド・ライトとの関わりなどを詳細に紹介していく。

外務省の国有地の無償貸与、経営会社の筆頭株主に宮内省という、まさに国策ホテルとして、帝国ホテルはオープンする。

鹿鳴館の隣に建てられ、鹿鳴館同様、外国人迎賓施設であったが、当初はほとんど客が来なかったのだという。

それが10年も続いた。

その後、外国人居留地制度が廃止され、海外から貿易先として注目を集めるとともに、日本観光ブームによって外国人観光客が押し寄せるようになると、ようやく客室が埋まるようになる。

外国人旅行自由化と日露戦争の戦勝景気の恩恵でさらに業績が好調だったため、本館の大改修、裏手に別館を増築、築地居留地にあったメトロポールホテルを買収し”築地支店”とした。

しかし、居留地廃止時点でメトロポールホテルの宿泊客は減って本店である帝国ホテルに流れてしまい、さらにその後の景気悪化によって帝国ホテルそのもの業績は下降線をたどる。改修や増築、買収費用の負債が重くのしかかった。

創業以来、支配人は外国人だったが、ニューヨークで美術商をしていた林愛作が日本人初の支配人として就任する。

就任後次々と新しいサービスを導入するのだが、どれも当時としては画期的なものばかりだ。

ホテル内に郵便局を設けて外国人旅行者の便宜を図る
鉄道院と交渉してホテル内で切符販売をできるようにした
東京観光に向けたハイヤーサービスのための自動車部を創設
外国人観光客のための英文観光案内誌「MUSASINO」発刊
ホテル内に洗濯部を設け、洗濯物やリネン類をすべて自社工場で処理

特に、洗濯部については、現在もその伝統は継承されているという。

3年半ほどで業績は回復するが、本館の老朽化は看過できない状態となっていた。

そこで、支配人林愛作がニューヨーク時代からの有人であったフランクロイド・ライトに設計を依頼することになる。

そういえば、以前フランクロイド・ライトの展覧会に行ったとき、彼が浮世絵のブローカーとなって取引したり、展覧会を開いたりするほどだったのを思い出した。

なるほど、林愛作が美術商だったことが接点になっているのだ。

「ライトは建築家なのか芸術家なのか」と言われてしまうほど、自分の理想を追求し、工期と予算は大きくなる一方だった。

納得いくものだけを調達したいと、大谷石の採掘山丸ごと直接ホテルで購入したり、常滑に自社直営のレンガ製造工場を作るなど、なかなかすごい。

当初予算130万円が着工時250万円となり、竣工時には600万円とも900万円ともいわれている。

そんななか、1919年(大正8年)12月27日、増築した別館が火事で全焼してしまう。

突貫工事で半年後に新別館を竣工。大正11年4月16日には煙草の不始末から、本館を火事で全勝してしまう。

築地は売却済みだったが、新別館と、すでに一部竣工していた新本館によって全面休業はまぬがれたが、一刻も早い全面開業が求められた。

しかし林支配人以下取締役退陣し、その1か月後にライトも帰国してしまう。

その後はアシスタントとして支えていた遠藤新を中心に工事が進められ、ライトが着任して7年、着工から4年が経過して、ようやく完成し、1923年(大正12年)9月1日に落成披露宴が開催されることになった。

地震に強い浮き基礎構造であったこと、ホテルでは世界初とも言われるオール電化厨房であったことなど功を奏し、大きな被害を出すことはなかった。

アメリカやイギリスの駐日大使館、会社などの仮事務所として、被災者支援のための救護施設となった。

興味深いと思ったエピソードとして、226事件のときホテルの敷地内で野営する部隊への炊き出しで、当時の料理長石渡文治郎が提供したのがカレーで、口にした兵隊たちが日本各地に美味しさを広めたことが、カレーを国民食にしたともいわれる。

その弟子でその後第11代の料理長となる村上信夫が出征時、日中戦争の最前線での賄いでカレーをふるまったが、その話には続きがあって、カレーの匂いから、敵の部隊が、日本軍の余裕を感じ夜中に撤退したという。

終戦後、GHQに接収された帝国ホテルは、内装や天井などの表面を白いペンキで塗ったり、特注の家具類が撤去され大型の普及品が運び込まれるなど、駐留したアメリカ軍によって、ライトの空間意匠は片っ端から変更してしまう。

ただ、当時の社長犬丸徹三は、そういったひどい状況においても、接収中のアメリカの料理場における厳格な衛生思想、衛生管理などを学ぶことができたと回顧しているそうだ。

1952年(昭和27年)4月1日、ようやく接収解除される。

ふたたび客を受け入れるにあたって、“疎開させていた鍋”を戻すということも行われたそうだ。

これは、前述の石渡文治郎が「金属類回収令」でさまざまな金属類が対象となるなかで、事前に予測して、部下たちにひそかに銅鍋の隠匿を命じたのだというから驚きだ。

戦後の復興と景気回復によって、ふたたび高い稼働率とキャパシティー不足が露呈する。

そして老朽化が問題となり、さまざまな議論のなかで、ライト館は取り壊され、一部は愛知県犬山市の明治村に移築された。

いまでも、なんとかそのままの姿を残せなかったか…という気もするが、当時の技術では難しかっただろうなという気はする。

そして建て替えられた3代目の建物である本館は竣工から50年ということで、新しく建替が計画され、2036年に完成予定という。

外国人相手の迎賓ホテルの先駆者である帝国ホテルは、さまざまな創意と工夫で、多くの困難を乗り越えてきた。

いま東京では、あちこちで再開発が進み、インバウンド需要の高まりも相まって、海外から多数のホテルが進出してきている。

これからますます競争が激化するだろうが、ぜひ負けないホテルであり続けてほしい。

本書をひととおり読んで、これまでの伝統や思いを知ると、応援したくなった。