1567 無料化する社会

定点観察

翌日に撮ったR25のラック。あっという間に配布終了。紛れてダミー 今日はR25が発行される日だが、今日の分がすべて配布されたのか、発行が間に合わなかったのかはよくわからないが、どこにも一冊もなかった。このフリーマガジンをもらうためにいつもの通勤ルートを変えてくる人もいるようで、ラックにないのを見ると、舌打ちしながら元来た道を戻っていくサラリーマンの姿もあった。最近、R25を含めてこのようなフリーマガジンは多数出ているし、就職情報や住宅情報など、無料で配布される情報誌も増えている。
 無料と言えば、先日、無料パソコンというのも現れた。もちろん、それには条件があるわけで、その負担と引き替えに無料でパソコンが手に入るということになる。この場合はインターネット接続サービスに加入するのが条件となる。

 無料であるというのは、お金がかかっていないとは同義ではない。誰かがどこかで負担しているのだ。もちろんそれは広告主だったり、インターネット接続サービスの提供者などが負担しているのだが、彼らが丸ごと負担して終わりというわけでは当然なくて、めぐり巡って最終的には広告を見て購入する読者や、インターネット接続サービスに加入する人たちが負担することになる。
 しかし利用者や読者に負担するという意識は非常に希薄だ。無料なはずはないのに、無料を「無意識」に享受することになる。何かと引き替えにしているとはっきりわかるうちはいいが、それがわからないまま、無料ばかりが一人歩きしていくことに、漠然とした不安を感じるのは僕だけだろうか?
 例えば最近のフリーマガジンは、立派な対談や記事などでできていて、とても無料だとは思えないような体裁になっている。そこには確かに広告もあるけれど、中には、広告なのか記事なのかわからないような紙面も見うけられる。そうなると、客観的に書かれた記事なのか、広告主の意向に添って書かれた記事なのかわからなくなってくる。何らかのバイアス(偏向)が入った記事は、そういう前提で読むべきなのに、それができなくなる。ここまでが記事で、ここからが広告と意識できなくなってくるのだ。

 そういう意味からも「無料化する社会」は「無意識化させる社会」と言える気がする。それが最終的に社会にどのような影響を及ぼすのかは、よくわからないけれど、漠然とした不安というか何かを感じていることだけは確かだ。

Posted by ろん