8137 浜通りを縦断
今年は福島県浜通りを北から、できるだけ海岸線沿いに走ってみようということで、やってきたのは、宮城県山元町。
宮城県最南端の町で、目と鼻の先は福島県だ。
まずは、震災遺構中浜小学校を見学。
当時の様子が時系列で紹介されていた。とても興味深く読んだ。
事前の訓練に加えて、さまざな奇跡や偶然の組み合わせがあって、避難した全員が無事に津波から難を逃れることができた。
1989年(平成元年)に建てられた校舎では、過去の津波・高潮被害の教訓から、敷地全体を2m程度かさ上げし、住民の避難用に外階段を3カ所設置された。

2011年3月9日三陸沖を震源とする地震(M7.3)発生したことを受け、学校管理職で、避難マニュアルの再確認を行う。
そのなかで、内陸の坂元中学校までの移動には子どもの足で約20分必要であるため、単純に水平避難をするのではなく、津波到達予想時間を考慮することを確認していた。
そして…3月11日14時46分、三陸沖を震源とする巨大地選(M9.0)発生し、14時49分には大津波警報が発表されるが、到達予想時刻 15時、予想される高さ6mだった。
前日の確認通り、水平避難は不可能と判断、全員を2階へと避難させる。
15時14分、大津波警報の情報更新され、予想される高さが10m以上に上昇してしまう。
校長は、約2m[敷地のかさ上げ)+4m[1階]+ 4m [2階]+2m [標高]=12mで、津波の高さが10mでも屋上なら助かると判断し、屋上避難を決断する。
津波到達前の15時30分ごろ、児童を迎えに来校した保護者や、地域住民もも一緒に屋上へ避難。
そして、15時50分ごろ、ついに津波が到達。子どもたちに、津波を見せない配慮として、児童を屋根裏倉庫に収容。
16時ごろ、高さ20mはあろうかと思われた第3波、第4波が引き波とぶつかり、沖で崩れたことで、屋上まではに津波は届かず、なんとか難を逃れた。
避難者は、児童52人、数職員12人、町職員3人、保護者・地区住民23人の合計90人で、彼らに対して校長は、この屋根裏倉庫で一夜を過ごすことを発表する。
学校の2階を提索し、音楽準備室でブルーシートが流されずに見つかり床に敷かれたり、体育館を接索、真空パックされた非常用毛布50枚が流されずに見つかったことで、児童ら(2人に1枚ずつ)に配布された。
中浜小学校では、級割りグループという学年を超えた子どもたちの交流がな校内活動や各種行事の中にあったことで、各学年がバラバラになることを防ぎ、すばやい集団行動へとつながったという。
6年生のリーダーを中心に子どもたちが楽囲で行動しやすいことから、自衛線のヘリコプターで内陸部へ移送される際にも活用される。
そうした経緯を聞きながら、実際の遺構を見ていくと、当時の様子が手に取るようにわかる。
ここからずっと南下していく予定なのに、かなり時間を取ってしまった。さぁ行こうと思った直後に、地図に「伊達政宗が座った石」なる場所があるのを発見し、寄ってみる。
ほんとに座ったのかな…と思いつつ、自分も座ってみる。
途中寄った「浜の駅 松川浦」では、名物「地魚丼」をいただく。
案内された通りの食べ方でとても美味しかった。
太平洋と潟湖・松川浦を仕切る約5kmの砂州上に位置する道路で、大洲松川ラインと呼ばれている。
ちょっと止めて見てみたかったが、うまく停めるところが見つからず、ほぼ通り過ぎてしまうしかなかった。
遠くに風力発電所の風車が見えてきた。
地図に”かしまの一本松”とあったので、近くまで行ってみたら、ずいぶん前に枯れてしまい、いまは、その後継の松を育てているという。
大きな実験施設のようなものが見えてきたので、車を止めてみてみたら、福島ロボットテストフィールドとあった。
ドローンをはじめ、災害対応や水中探査などのロボットなどの開発・実証実験を専門に行うところのようだ。
そして、以前から、気になっていた、都市型索道(ロープウェイ) Zipparの実験線もあったことに気づく。
コンセプトはとても良さそうなので、ぜひ実現してほしい。
請戸小学校配膳も見学しているので、今回は外観だけ。
続いて、整備中の国営追悼・祈念施設が見えてきた。
2026年春に完成するという話を聞いていたので、きっと2026年3月11日に間に合わせるのではないかと思ったが、残念ながら現時点でも完成はしていないようだ。













