7722 「生誕190年記念 豊原国周」展

太田記念美術館で開催中の「生誕190年記念 豊原国周」展を鑑賞。
豊原国周(とよはらくにちか)は、幕末から明治にかけての浮世絵師で、歌川国貞(三代豊国)の門下生であり、楊洲周延は彼の弟子だそうだ。
展示の冒頭では、師匠である国貞の得意とする役者絵や美人絵を引き継ぎ、半身像や胸像として捉えて描いた浮世絵である大首絵が紹介されている。
続いて、こんな章立てで続く。
第1章「初期の画集」
第2章「国周の飛躍」
第3章「明治時代の国周」
第4章「画題の広がり」
第5章「画風の円熟」
何点か気になった作品を挙げていくと…

《写真所 佐々木源之助 沢村訥升》は、当時流行した湿板写真による役者のブロマイドをイメージした作品だそう。写真を浮世絵にしたということか。
《大星由良之助城渡シ之場 市川團十郎》という作品は、市川團十郎と引幕が描かれ、その引幕に、たくさんの化粧水や薬などの広告が載っているが、掲載されている広告のジャンルが、現在とさほど変わらないのが興味深い。
《遠山桜天保日記 生田角太夫 市川左団次》初代市川左団次が私財を投して後援者を募り、新開場した明治座のこけら落としの舞台が、日本初の拳銃強盗犯として知られる清水定吉を当て込んだとあった。
”最後まで徹底して役者絵として表現することにこだわった”とあったが、実は他の手法を取ることができなかったから?なんて思ってしまった。
というのも、《東古風 かすみが関より冨嶽眺望の図》では、屋敷の壁に対して人物が異様に大きくかなり違和感のある構図だった。
国周が大画面の風景描写に不慣れだったことが理由らしく、他の作品でも背景は弟子などに描かせていたようだ。国周の人となりについては、こんな紹介があった。
大酒飲みで知られ、酒席で河鍋暁斎と大喧嘩をして楊洲周延が止めた話、九代目市川団十郎と喧嘩をしてわざと出目に描いた話、「国周が入牢した」とデマを流されるという詐欺に引っかかるなど借金がかさんで東京で2番目に破産宣告を受けた話、一説に117回も引っ越しを行い「絵では北斎にかなわないが、引っ越しでは負けない」と豪語した話など、国周の生涯はにわかには信じがたいようなエピソードに満ちています。
かなりぶっ飛んだ人だったようだったので、それにまつわるような話があるかと思ったのだけど…、国周の人となりと結びつくような作品は、あまりなかったように感じた。
そういったこともあってか、ひととおり鑑賞したのに、国周の特徴をいまいち掴み切れない感じがしてしまった。