1827 叱咤激励

定点観察

そういえば、もう最近は叱咤されることも激励されることもほとんどない。年齢を考えれば、むしろ叱咤したり激励する側の立場にいて当然なのだけれど。

叱咤の部分は、その文字の如く“叱る”で、激励の部分は“励ます”ということで、叱ったり励ましたらするなんていう意味かなと思ったらどうもちょっと違うらしい。辞書で改めて調べてみると「大きな声で強く励ますこと」ということらしい。「大きな声で」ってところは知らなかったし、この言葉は、最終的には励ますという意味なのだということを初めて知った。

いずれにしても、最近、実生活では、叱咤激励されることはほとんどないと言っていい。

僕の行動が客観的に見て誤っていたとしても、誰からの指摘がなければ、自分自身で「誤っている」と判断することはおそらく難しいだろう。これまでの自分自身の経験則から判断するしかないわけで、正しかったかどうか不安のまま過ごすか、勝手に「正しかった」と判断するしかなくなる。

自分自身を見つめ直すことはいくらでもできるが、それにも限界がある。自分を飛び出して第三者の目から見ることは、幽体離脱でもしない限り不可能だ。例えば…“地球”を調査することは地上だけの調査である程度分かるが、地球を飛び出して文字通り客観的に人工衛星から地球を観測した方がはるかによく見える…ということ。あまり例えとして良くないか。

自分では無意識でやっていたり、よかれと思っていた行動が、実はあまり周囲に悪い影響をもたらしていたとしたら…僕自身が気付かなかった、そうしたこときちんと指摘してくれる人は、僕にとって大変ありがたい存在だと思う。今日ある人と話をしてちょっとそんなことを感じたので…ありがとう。

今日はいつもに増して話がまとまらなかったかも…。

Posted by ろん