[社会の窓]一抹の寂しさ以上の何か
3月16日、東横線渋谷駅が地下化される。
地下化前最後の日曜日となった3月10日は、“大きなお友達”がやたら集結。付近一帯は大騒ぎだった。
今日は、僕も多少興奮して写真を撮りまくってしまったのは事実。
そんな軽い興奮と喧噪のなか、ふと、物思いに耽る瞬間があった。
単なるノスタルジー?
確かにそれもあるだろう。
でも、それは、人間の根本的にある“本能”に近い感情ではないかと思う。
いくら“便利になる”とか、“新しくなる”といっても、必ずそれは、何かと引き替えることを意味するものだから、多少の割り切りは必要なのかも。
いや…
それとは違う気がした。
きっかけは、中目黒駅で感じた、若かりしころの母のことを考えたときだった。
きっと母も利用したはずの日比谷線直通電車や渋谷駅が、数日で消えてなくなるという現実に対する寂しさだけではない、何かを感じた。
その“何か”が何であるのかは、よくわからない。
いろいろ写真が撮れて満足…というのもあるけど、そういった楽しいことではなく、どちらかと言えば、一抹の寂しさの延長線上にあることのような気がした。
今日のような場合、ありとあらゆるものが、格好の被写体となってしまう。
だから、社会の窓に選ぶ写真も、かなり迷ってしまったので、とりあえずの1枚。今週しか使えない?から、途中で変えるかもしれない。
この写真は、東横線渋谷駅から出発する電車のサボ(行き先表示板)と渋谷駅の天井。
東口から見えるギターピックのような形をした巨大な仕切り板も特徴的だが、天井も実は趣がある。
仕切り板のカーブに合わせて、2種類の色の三角形が鱗のように並ぶ。絶妙なカーブが、無機質になりがちな空間を優しく包み込んでいる。