8327 展覧会「ニューヨークの藤田嗣治」
軽井沢安東美術館で開催中の生誕140周年記念企画「ニューヨークの藤田嗣治」を観賞してきた。
日本人として初めてパリの画壇(エコール・ド・パリ)で世界的な成功を収めた藤田嗣治(レオナール・フジタ)だが、第二次世界大戦中は日本で数多くの「作戦記録画(戦争画)」を手掛けた。
そのことが災いし、敗戦後の日本美術界において、彼は激しい「戦争協力者批判」の集中砲火を浴びることになる。
自身の制作活動を阻害する不条理なバッシングに嫌気がさした藤田は、日本からの脱出を強く望んだ。
しかし敗戦直後の日本からフランスへの直接渡航は手続き上極めて困難だったため、彼はビザや資金の準備を整えるべく、まずはアメリカのニューヨークへと向かうことになる。
ニューヨーク滞在は約10か月という短い期間に過ぎなかったが、この期間こそが彼のその後の画業と人生を決定づける大きな転機となったと言われている。
渡米の際、彼が日本の美術界に残した辞世の句のような言葉は、今読んでもあまりに痛烈だ。
「絵描きは絵だけ描いてください。」
「仲間喧嘩をしないでください。」
「日本画壇は早く世界的水準になってください。」
敗戦後の混乱の中、戦争責任のすべてを藤田ひとりに押し付けようとした日本の画壇に対する、痛烈な拒絶と絶望がこの言葉には込められている。
結果的に戦争協力に加担する形となったことについて、彼自身にも様々な葛藤や思うところは当然あったはずだ。
しかし、彼が描いた戦争画を改めて見つめていると、彼が戦争を全面的に容認し、国民の戦意を昂揚させようとしていたとは到底思えない。


以前、東京国立近代美術館で鑑賞した《アッツ島玉砕》や《血戦ガダルカナル》を思い返せば、そこに描かれているのは、けっして戦争の美化や戦勝の誇らしさなどではなく、凄惨な殺戮と泥にまみれた地獄絵図そのものだ。どう見ても人々を戦地へ駆り立てるような内容ではない。
藤田は戦争画を描くにあたって、戦意昂揚という国策の枠組みを超え、画家として「戦争という人間界の惨劇」を冷徹かつ正確に記録し、後世に伝えようとしたのではないだろうか。
それだけに、自らの芸術的真摯さを無視した「戦争協力者」という画一的なレッテル貼りや、世論の批判、日本の美術界における見苦しい内部対立に、彼は耐えられなかったのだろう。

ニューヨークでの約10か月間は、傷ついた精神を癒やし、再び純粋な芸術へと向かい合うための極めて重要な冷却期間となった。その後、藤田は念願だったフランスへの再入国を果たし、後にフランス国籍へ帰化することになる。
これでようやく安寧の日々を手に入れたかのように思えたが、運命はそう甘くはなかった。
国籍を変えようとも、彼はどこまで行っても「異邦人」であり、日本で味わった深い疎外感をパリの地でも完全に拭い去ることはできなかった。
国家や組織、あるいは画壇という人間の社会から拒絶され続けた彼が、最終的に行き着いたのが、かつて渡欧初期や戦前から向き合っていた「宗教画」の世界であり、カトリックへの洗礼だった。
日本にもフランスにも真の故郷を見出せなかった藤田嗣治にとって、絵を描くこと、そして神に祈りを捧げることだけが、荒波のような人生の中で辿り着いた唯一の「絶対的な安住の地」だったのかもしれない。



