8319 最後の明治生まれ
国内で最後の明治生まれとなった方のニュースを目にした。
いつかはそういう日が来ると分かってはいたものの、あの「明治」という時代を生きた人がついにたった一人になったという現実は、ショックというほどではないにせよ、深く考えさせられるものがある。
自分が子どもだった頃、明治という時代はもっと身近な存在だった。
祖父母たちが明治生まれであったことはごく当たり前のことだったし、役所や病院で渡される申込書の生年月日欄に「明治・大正・昭和」と選択肢が並んでいるのもごく日常の風景だった。
それがいつの間にか、書類から「明治」の文字が消えていたのを思い出した。
今回ニュースになったのは「最後の明治生まれ」だが、視点を広げてみれば、今この瞬間にも「最後の大正生まれ」や「最後の昭和生まれ」、そしていずれは「最後の平成生まれ」となる人がどこかで生きているはずだ。
そう考えると、時の流れの”不可逆性”と不思議な巡り合わせみたいなのもを感じずにはいられない。
時間の経過に対する実感は、決して一定のものではない。
例えば「第二次世界大戦」と聞くと、歴史の教科書の中に収まった果てしなく古い時代のできごとのように感じてしまう。
しかし、自分が生まれたころに遡ってみれば、終戦からわずか30年ほどのできごとに過ぎなかったのだ。
30年という歳月は長く思えるが、自分自身の人生を振り返ってみても、十分に鮮明な記憶できている時間である。
かつては生々しい手触りを持っていた日常や歴史のできごとも、時代の流れとともに、ゆっくりと、しかし確実に「遠い記憶の彼方」へと押し込まれていくな…と「最後の明治生まれ」のニュースで実感した。