8283 求められる覚悟

映画をはじめとする映像作品において、現実の災害や事故が作品のテーマと奇妙に符合してしまう現象は過去にも少なからず存在するした。
前作では描かれた地域で公開直前に実際の噴火が起き、今回の新作『TOKYO MER』では巨大地震を描いた内容の公開わずか1ヶ月前に、地域こそ異なるものの最大震度7の激震に見舞われるとなれば、関係者も「よりによってこのタイミングで」と頭を抱えたに違いない。
現実がフィクションの想定を超えてしまう事例は枚挙に暇がないが、今や『TOKYO MER』のように命を救う医療や災害救援を正面から扱う作品であっても、災害そのものを描くことが興行上・倫理上の大きなリスクとなる時代だ。
被災者や社会感情への配慮という観点から、公開延期という判断が下されること自体は一定の理解ができる。
しかし一方で、「配慮」という言葉の及ぶ範囲をどのように定義すべきかという根本的な問題も気になる。
自然災害に限らず、事故や事件など、どのような題材であっても、作中で描かれる不運や悲劇と似通った境遇に身を置く人々は、常に社会の中に一定数存在しているからだ。
被害の規模が大きいか小さいか、あるいは報道によって世間の注目が集まっているか否かによって、配慮の有無が切り分けられるのだとすれば、その基準は極めて曖昧だし、場合によっては恣意的になるとも言える。
配慮の対象を際限なく広げていけば、最終的にはあらゆる悲劇や葛藤をフィクションの世界で描くこと自体が不可能になってしまう。
配慮を拡大していけば自らの表現を狭めてしまう。
単に世間の批判を恐れて公開を一時的に伏せるだけでは、本質的な問題解決や支援にはつながらない。
制作・興行側に問われているのは、当事者への痛みにどう向き合うかという姿勢ではないだろうか。
ネット上の議論でも示唆されていたように、例えば作品は予定通り上映した上で、劇場ロビーなどで被災地支援の募金を募り、観客と共に被災者へ思いを馳せる場を創出するといった積極的なアプローチも十分に考えられるはずだ。
不可抗力の災害が起きるたびに、判で押したように「延期」や「自粛」の選択肢しか選べないのであれば、それは配慮という名の「思考停止」と批判されても致し方ない。
作品を届けることと、社会的な課題に思いを寄せること。
その双方を成立させるための粘り強い模索こそが、『TOKYO MER』のような強いメッセージ性を持つ作品と表現者に求められる真の誠実さではないだろうか。