8270 特権という名の慣習
いま、福岡県議会において金銭授受の疑惑と、公費による海外視察を巡る問題が大きな波紋を呼んでいる。
元議長が「役職の維持や党内での優遇を得るため、幹部らから最大2,840万円の現金を脅し取られた」として音声データを伴って暴露したのに対し、告発された側は「事実無根」と全面否定しており、まさに”泥試合”を呈している。
またそれと並行して、一部のベテラン議員たちがファーストクラスの航空券や超高級ホテルを利用して頻繁に渡航していた問題も大きな問題になっている。
訪問実績に関する報告書がほとんど作成されていなかったばかりか、議長が記者会見で「海外旅行は続けます!」と”言い間違え”、本音では「視察ではなく旅行」と認識している実情を自ら露呈する事態となった。
慣習というものの恐ろしさは、客観的に考えれば明らかに度を越した異常な事態であっても、当事者や周囲が思考停止し、無意識のうちに当たり前として受け入れてしまう点にある。
海外活動費として、5年間で3億円以上の公費が投じられたという。
そもそも、外交に携わるわけではない地方議員の海外活動の是非自体問われるべきだろう。
さらに言えば、なぜ議員の公務においてビジネスクラスやファーストクラス、高級ホテルの利用が認められているのだろうか。
もちろん今となっては、そうしたことに違和感を覚えるが、それまでは、有権者の側も、どこか「そういうものだ」と無意識に容認してきた節がなかっただろうか。
そして、その正当な理由について明確に説明できる人がどれほどいただろうか。
一方、そうした待遇を享受している当事者たる議員たちは、自らの言葉でその理由を説明できるのだろうか。
自分自身の感覚としても、あらためて考えてみると、その手厚い待遇が必要とされる根本的なロジックを耳にした記憶がない。
社会も自分自身も、ただ「昔からの決まりだから」と受け流してきたのが実状ではないだろうか。
この機会に、なぜ公人にそれほどの高級な環境が用意されるのか、その理由をあらためて考えてみる。
結論から言えば、「高級であること」の質的な意味とは、移動や滞在に伴う人間への身体的・精神的な負荷を極限まで下げることと同義であると思う。
移動や宿泊環境をできる限り快適に整えることで、その人物が持つパフォーマンスや判断力を最大値に引き維持させること。
公のために選ばれた限られた人物だからこそ、重要な意思決定において真価を発揮してもらうために、社会がコストをかけてそれ相応の環境を提供する――。
この「パフォーマンスの最大化」という考え方であれば、公費の投入理由としても論理的な筋が通り、有権者の側としても納得がいくだろう。
はたして、渦中の議員たちはこうした本質的な問いに対し、どのような回答を示すのだろうか。