8254 届かない警告と、守る人々の連帯

先日見かけたマナーポスターだが、そもそもこのような啓発活動にどれほどの効果があるのだろうか。
結論から言えば、実質的な効果はほとんど期待できないのではないか、ということは薄々想像がつく。
理由はいたって単純で、本来マナーの改善を求められている当事者たちが、この手のポスターを最初から見ていないからだ。
仮に視界に入っていたとしても、それは単なる風景の一部にすぎず、まさか自分自身に向けて呼びかけられているとは夢にも思わないだろう。
そう考えると、一見するとこれらのポスターは、制作する側の自己満足や「対策を講じている」という免罪符の世界にとどまっているようにも思える。
しかし、もしこのポスターに何らかの真の効果や存在意義があるとするならば、一体どのような仕組みなのだろうか。
改めて観察してみると、このポスターを熱心に読んでいる層は、皮肉にも最初からマナーを遵守している人々ではないかという仮説に行き着く。
すでにルールを守っている人がマナーポスターを見ることになぜ意味があるのか、少し深く考えてみた。
仮に、マナーポスターが一切存在しない世界を想像してみる。
マナーを守らない人間が周囲に増えていったとき、人は「自分が正しいと信じているマナーは、本当に社会的に適切なものなのだろうか」と、自らの常識に対して不安を抱いてしまうかもしれない。
しかし、そこに公的なマナーポスターが存在することで、自らの行動基準が「やはり間違っていなかったのだ」と再認識し、安心するきっかけになり得る。
そもそもマナーとは、大多数の人間が共通の認識を持って守り続けることで初めて成立する不文律だ。
そのためには、ルールを遵守する側の人々の間で「私たちは正しいことをしている」という、ある種の連帯感を確認し合うきっかけが必要なのだ。
つまり、マナーポスターはルールを破る不特定多数を正すためにあるのではなく、日々マナーを守り続けている大多数の一般層を鼓舞し、その連帯を維持するためにこそ存在しているのかもしれない。
日常のささやかな掲示物は、実は社会の常識を支える側の心を静かに支える、盾のような役割を果たしているのではないだろうか。