8201 「捨てる」という痛みと記憶の重み
今日は通院の付き添いで川越の実家へ。
通院については思うところもあるが、いったん置いておく。

午後、通院から帰ってきて、不要になったものをゴミ処理場へ自己搬入することにした。
これまでも何度か経験しているが、ゴミ捨てという作業は心がヒリヒリする作業だ。
それほど思い入れがあったわけではないはずなのに、いざ捨てるとなると、途端に捨てずに済む理由を考え始めてしまう。
「ずっと使っていなかったのに、本当に使うのか」と自問し、邪念を振り払う。
状態が良いものほど、「もったいない」という感覚が強く残る。
合理的ではないと分かっていても、思考が勝手に動き出す。
ふだんは意識していないくせに、捨てる時にだけ存在感を主張してくるのは皮肉なものだ。
気づかなければ、これほど悩むこともなかっただろう。

帰り際、駐輪場の落とし物として「カレー王」と書かれたTシャツが吊るされていた。
なぜこれを落とすのかは謎だが、落とし主が初めてこれを手にした時も、その存在感を意識せずにはいられなかったはずだ。
モノは手に入れる時よりも、手放す時、あるいは失うときのほうが、その輪郭を鮮明にする。
実家の整理で続いていた重苦しい自問自答も、この「カレー王」の異様な佇まいを前にして、どこかへ霧散してしまった。