7648 企画展「ハニワと土偶の近代」
企画展「ハニワと土偶の近代」の鑑賞のため、東京国立近代美術館へ。
ハニワは千数百年年以上も前の古墳時代のものなのに、なんだかやたら身近な存在のように感じる。
どこか”ゆるキャラ”に通じるものがあるせいか、とっつきやすさみたいなものはある。
と同時に、その独特な表情から、どこか怖さみたいなものも併せ持っている気がする。
これまで、ハニワや土偶がどのように見られたり扱われてきたりしたのかについて、徹底的に紹介する企画展だ。
東京近代美術館とハニワやそれらが作られた時代との関係は意外と深い。
開館2年目の企画展では、ハニワ群像のインスタレーションが展示され、地下収蔵庫の新設のための発掘調査では縄文時代の土器が出土しているそうだ。
江戸時代後期には好古家と呼ばれる人たちによって、埴輪が蒐集されたり記録されたりしてきたようだ。
明治に入って海外から考古学がもたらされると、ハニワに対する視点が交錯するようになる。
1940年を目前とした皇紀2600年の奉祝ムードが高まる頃になると、考古資料としてではなく、ハニワそのものの「美」が称揚されるようになる。
そして、純素朴なハニワの顔が「日本人の理想」として、戦意高揚や軍国教育にも使われていくようになる。
空ろな眼をしたハニワの美が、戦時を生きる人々の感情と結びつき、共感を集めていった。
戦後の復興が進むにつれ日本中の「土」が振りおこされた。
黒塗りの教科書を経て、歴史は神話に代わり、石器や土偶、ハニワといった出土遺物の写真が登場するようになる。
軍需工場であった登呂遺跡が武器の出土しない弥生時代の水田遺構だったことも、平和国家としての日本の再出発を強くイメージづけたそうだ。
ハニワが戦意高揚から、平和のシンボルへと変わっていく。
もはやグラビアのようなハニワの写真集がベストセラーになったり、当時流行していたキュビズムと融合したり…。
ハニワがより身近な存在となっていったようだ。
「ハニワと土偶の近代」というタイトルの企画展なのに、ハニワは2体、土偶にいたっては、1体も展示されていないようだ。
お客さんは多いが、鑑賞に困るような多さではない。
全幅13.5メートルの巨大な作品は、ろうけつ染めによって描かれているそうだ。
絵巻物のようにイザナギとイザナミなどが描かれていて、すごい迫力だが、古事記をよく知らないので、ちゃんと理解できてはいないのかもしれない。
長谷川三郎の作品を見たら、あれ?これって太陽の塔に似てる感じがする…と思っていたら、すぐ隣に、岡本太郎の作品があった。
彼の作品には、明らかにハニワの影響があったということを、あらためて知ることになった。
日本の伝統を継承するのは「縄文」か「弥生」か?といった論争があったそうだ。
縄文派の急先鋒が、岡本太郎であり、今目にしている作品はその文脈に沿って生まれてきたもののようだ。
武者小路実篤の”現代の「卓上」にしれっと太古の遺物が紛れ込んでいる”静物画はおもしろい。
1964年の東京オリンピックには採用されなかったそうだが、同年開催された新潟国体で、火焔型土器をモチーフにした炬火台が実現している。
ちなみに聖火はオリンピックだけで使われるものなので、こちらは炬火というらしい。
1966年、ハニワは映画にも登場する。
自分はほとんど知らなかったが、今でも根強い人技があるみたい。
また、他にもさまざまなハニワや土偶をモチーフとしたグッズが作られたようで、いくつか紹介されていた。
田附勝《皇太子さまご結婚式 1959年(昭和34年)1月16日 東京新聞(撮影 2018年7月30日東京渋谷区)》という作品で締めくくられていた。これをみても、さっぱり意味が分からず、どことなく”不謹慎”な感じすらしてしまった。
解説を読めば、これは、展示冒頭にあった東京国立近代美術館で出土した土器片を、皇太子さまご結婚式を伝える当時の新聞とともに写したものだそう。
土器片の保護用に使われる新聞紙自体が”時代を保管している”と考えた作者が「いくつにも積み重なった地層。表層と深層を繋ぐ時間」に関心を持ったという。
なるほど、そんな思いがあったのか…。
最後のコーナーでは、NHK教育テレビで放送されていた「おーい!はに丸」が紹介されていた。
放送されていたのは、1983年(昭和58年)~1989年(平成元年)だそうだから、もう40年くらい前なのだ。
いまでもテーマソングはよく覚えている。
どういった子どもに向けた番組かと思って調べてみたら「飛躍的に言葉を覚え始める3歳児向け幼児番組」だそう。
なんで観てたんだろう…。