7606 展覧会「空の発見」

渋谷区立松濤美術館で開催中の展覧会「空の発見」を鑑賞。絵画などで屋外の風景などを描くとき、空が含まれるのは当然…と思ってしまうが、決してそんなことはないのだ。
そんなことを、あらためて意識するきっかけになった。
意識されないから、ある意味“存在すらしていない”状態だったとも言える。
屏風絵などでは、不要な部分を隠すために蜘蛛が用いられているし、ちょうどいい感じの余白として、賛の文字が書かれたりする場所だった。
空が積極的に描かれる対象となることはなかったのだ。
描かれるとしても、“一文字ぼかし”というグラデーションで処理するだけだった。
それは、先日鑑賞した、歌川広重も同じだ。
西洋から“空”が“輸入”されるまで、空の存在が意識されることはなかったようだ。
ただ西洋でも、伝統的な物語画や歴史画が主役であって、あくまで想像上の風景として描かれるに過ぎなかったが、なかには、刻々と変化する空や光の一瞬を切り取ろうとする作品も登場している。

日本でも、雲の観察を重ねたり、リアルな夏空を描いたりする例も出てくる一方、画家自身の心象などを表現する場として使うケースも出てきた。
存在しないはずの、濃い緑とありえないほどのオレンジの雲などが描かれたりするのだ。
香月泰男《青の太陽》は、なんとなく印象に残った。
画家としての前途が拓けてきたころ召集され、終戦後のシベリア抑留を経験した経験を描いている。
匍匐訓練をさせられていた時に見つけた蟻の巣穴に出入りする蟻を羨んで、蟻になって穴の底から青空だけを見ていたいと思ったそうだ。
深い穴から見ると、真昼の空にも星が見えるという。
そういった背景を意識して作品を見ると、まったく違って見えてくる。
会場は2つのフロアに分かれ、6つの章で構成されていた。
「日本美術に空はあったのか?-青空の輸入」
「開いた窓から空を見る-西洋美術おける空の表現」
「近代日本にはさまざまな空が広がる」
「宇宙への意識、夜空を見上げる」
「カタストロフィーと空の発見」
「私たちはこの空間に何を見るのか?」
ただ後半は、章ごとの作品数に差があったせいか、順番がバラバラでちょっと見づらい感じがしてしまった。