ゼロコロナという病/藤井 聡、木村 盛世

■新型コロナウイルス感染症,龍的図書館

photo

藤井 聡、木村 盛世
産経新聞出版 (2021/7/16)

新型コロナウィルス感染症が広まって、丸2年以上経っても、保健所や医療の逼迫という当初と同じ問題が起きるというのはどういうことなんだろう。

なぜ、全然状況が改善されることがないのだろう?

政府や医師会がずっと同じことを言い続けていることに違和感を覚えていないのはなぜだろう?(本当に気づいていないのか、それともあえて…か?)

日本よりも高いワクチン接種率を誇る国が、なぜ日本よりも感染者数が多いのか、逆にワクチンの接種がほとんど進んでいない発展途上国の感染者が増えないのはなぜだろう?

もともとワクチンは感染を完全に防ぐものではないとされ、実際に重症化させない効果があることがわかってたのなら、なぜさらなる接種が必要なのか? もし追加摂取にきちんとした効果があるとしても、それが半年程度しか持たないのなら、費用対効果を考えるべきではないか?

こういうことを思うと、どうしたって、行動の自粛に、意味や効果があるのか?という疑問がつねに付きまとう。

そうした疑問についても、本書の立場はとても明確だ。

本書は、元厚労省医系技官と元内閣官房参与の対談を通じて、コロナ禍の日本の問題を指摘していく。

本当にそんな言い方をしたのかは定かではないが、テレビ朝日のワイドショー関係者から「この話題は長引きますよ。この新型コロナ、ガンガン煽って、ガンガン行きましょう」という趣旨のことを言っていたという。

ここからは、自分の勝手な解釈だが、こうした番組関係者も陥れてやろうといった“悪意”はなく、本心から必要な情報を届けなければ…という“使命感”からの発言なんじゃないかと思う。

これは、本書で”上から目線“とこき下ろされた日本医師会会長や、“専門バカ”と呼んだ分科会会長や”8割おじさん“にも共通するところで、おそらく、彼らにとってはすべて本心であり、彼らなりに感染拡大を心配しているのだろう。

しかし、時間が経つにつれ、彼らの提言と現実に起きていることに、どんどんと乖離が生まれてるにもかかわらず、訂正したり見直したり、ましてや反省することなく活動を続けていることに対しては、違和感を覚える。

自分自身は、けっして、ただの風邪だとは思わないし、風邪では起こり得ない後遺症も心配で、きちんとした対策は必要だとは思うが、あいまいな検証や憶測だけで決められた、不可解な自粛要請などの対策については、最近は憤りすら感じる。

そうした、効果がはっきりしないようなさまざまな感染対策は、もはや、やらないよりマシではなく、やることによるデメリットのほうがはるかに大きいことを意識すべきだろう。

本書を読んで、あらためて思い出したのは、新型コロナウィルス感染症が拡大してから、自分の考えもどんどん変わっていったということだ。

自分も含めて、多くの日本人は“専門家”に弱いと思う。

専門家が言うなら…と、違和感を抑え込みがちだ。

でも専門家というものは、これまでの経過を解説することができても、将来を見通すことはできるとは限らないということを、コロナ禍で大いに学んだと思う。

これは地震でも同じだが、現に、新型コロナウイルスに関しても、予測はことごとく外してきたではないか。

それを責めるわけではないが、世の中(特にマスコミ)は、専門家に自分たちの(注目を集めそうな)主張を言わせようとしているし、専門家も自分の限られた専門領域についてのみ語り、あくまでも“可能性”を伝えることで「嘘は言ってませんよ」という“てい”で、責任を回避しているようにも見える。

そうした構図がわかってくると、今後の世の中の見方も変わってくると思う。

そうした新しい見方ができる人が増えてくると、世の中も変わってくるのではないだろうか。

Posted by ろん