6374 毎度おなじみの結論ありき
東京オリンピックの開閉会式の作曲を依頼されたCorneliusの小山田圭吾が、かつて、障害者であった同級生に対する壮絶ないじめを告白していた。
彼の行為は、筆舌し尽くし難く、とても“いじめ”と言えるようなものではなかった。
これはどう考えても”アウト”だ。
仮にかつてそういったことをしたとしても、それを嬉々としてそれを公表してしまう時点で、その行為に問題があるということを認識していなかったといってもいいと思う。
反省しているわけでなく、あくまで周囲から言われているから仕方なく、ポーズをとったに過ぎない。
少なくとも今回、こうして大きな問題として取り上げられなければ、本人も気づかない”些細な問題”だったはずだ。
意識がないのだから、反省のしようがないのだ。
それだけに、事態は深刻で、このプロジェクトに参加する資格はまったくなく、その余地すらない。
明らかに問題のある人物だとわかっていても、何とか乗り切ろうと悪あがきをするのは、今回の件に限らないが、辞任は時間の問題だろう。
いまは、もはや何の意味もなく、自己満足にすぎないけど、体面を保とうと取り繕うための時間だ。
そして、辞任不可避と認識している人たちによって、後任を探す時間にあてられてるに違いない。
もともと彼がこうした行為をしていたということは、それなりに知られていたらしいが、それが顧みられることはなく決定したのだろう。
今回の東京オリンピックは、そんなことの繰り返しだった。
国立競技場建設もしかり、エンブレムもしかり、すべては結論ありきで物事が決まっていくのだ。
組織委員会は、なぜ、よりにもよって彼に依頼しなければならなかったのかがよくわからない。
もういい加減、それには無理がありすぎるとわかってもよさそうなものだが、開催中止にならなかったことが唯一の成功体験となって、”いつもの”結論ありきで選出されたのだろうな…と推察する。
これからも、間違いなく、同じようなことを繰り返すことになるだろう。