核実験地に住む/アケルケ スルタノヴァ

■歴史・地理,■社会・政治・事件,龍的図書館

 

広島や長崎は、戦争で核兵器が使われた例として知らない人はいないだろう。

しかし、”セミパラチンスク”と聞いてすぐに、その地名の意味するところがわかる人は、おそらくほとんどいないと思う。

ソビエト連邦を構成する国家のひとつであったカザフスタンにあるセミパラチンスク核実験場で、ソ連最初の核実験が行われたのは、1949年8月29日だった。

それから、1989年10月までに456回もの核実験が行われ、死亡や人口流出を除いても、これまでに 、なんと120万人もの人々が、被ばくしたという。

もともと極秘で行われていたことや、ソ連崩壊による混乱などもあって、これまであまり知られてこなかったが、時代を経て、ようやく少しずつ、実態が明らかになりつつある。

著者は、そのセミパラチンスクで生まれ、日本に留学した経験を持つ。本書は、留学した一橋大学の修士論文に手を加えたものだそうだ。

実際に地元の人たちに対するヒアリング調査を行い、これまで表に出て来なかった”生の声”が多数紹介されている。

最初の核実験でも、地元の人たちへ事前にまったく何も知らされることなく、当然ながら避難などもされなかった。

「大きなキノコ雲を見た。まぶしい光だった。怖くて家に逃げた」とか、「学校帰りの途中、火の玉のようなものが見えた」、「同じ村で家の屋根が落ちて、子供が死んだ」とか、「私と兄弟は頭が痛くなり、気持ち悪くていっぱい吐いたのをよく覚えています」といった証言に驚く。

核実験場近くに人が住んでいるということは、まったく考慮されていなかったのだ…と思ったら、むしろ逆であったことがわかる。

いつ核戦争が起きるとも限らないために、実際に原爆が落とされたときに住民がどうなるかの知識が必要と考えられたのだ。

これは、もう人体実験そのものだった。

当時、アメリカでは、放射線による汚染を減少させるために晴れている日や夏を避けて冬に行ったが、セミパラチンスクではすべてが逆だったという。実験は、あえて収穫の時期であったり、雨が降り、激しい風が吹いていたときに行われたのだ。

また、1953年には、ある村では意図的に核実験場に残され、被ばくした人たちがいたという。

著者の行った、住民たちの証言や調査によれば、意図的に残されたと思われる人々は、全員、癌で死亡したという。

当然ながら、この地域に住む人たちの病気は増えたが、その対策は全くとられることがなく、病気に苦しめられることになる。

セミパラチンスク地域の女性は女性生殖器疾患や流産、早産、不妊など妊娠のまつわる異常が圧倒的に多かった。

男性機能不全も同様で、それを苦にした自殺も多数見られるそうだ。

ある女性の証言「あの時、私がお医者さんに最初に聞いたことは『女の子ですか?』『男の子ですか?』ということではありませんでした。『手足の指はそろってますか?』と聞きました。『大丈夫です』と言われてからとても幸せでした。」は、もう、こうしたことが常態化してしまった状況を意味するもので、恐ろしくなってくる。

核実験が中止されてからもうずいぶん経つが、現在も苦しんでいる人たちが多数いることも、あまり知られていないだろう。

人間の愚かさをイヤというほど突きつけられる感じがするが、セミパラチンスクに生まれた人たちにとっては、まったく関係のないことだ。

切ない証言を読んでいると、胸が締め付けられる思いがする。

読み終わったあとも、いろいろ考えさせられた。

今となっては、過去をどうすることもできないが、いまの世界は、こうした人たちの犠牲の上に成り立っているということは、決して忘れてはいけないと思った。

Posted by ろん