4543 すべては慮った結果…

旧国立競技場に展示されていた、新国立競技場の模型文部科学省の第三者委員会は、新国立競技場の整備計画が白紙撤回された経緯を報告書に取りまとめた。

しかし、肝心の施工側と設計側との見積が乖離した原因は解明されなかったし、キーマンとされる森喜朗元首相のヒアリングが行われていないなど、いったい何の調査をしたのか?と思わせる内容だったようだ。

第三者委は今回、関係者延べ30人以上にヒアリングを実施したが、JSCの有識者会議メンバーだった森喜朗元首相のヒアリングは「必要がなかった」との理由から見送られた。

これには、思わず笑ってしまったのと、ちょっと心配にもなった。

「聞く必要がなかった」と言い切ってしまった…つまり言い方を変えれば…
森喜朗元首相は、有識者会議メンバーだったのに…

「いてもいなくてもいい存在だった」

「いる意味がなかった」

…と言っているようなものではないか?

もっとも、聞く必要がなかったというより、実際には、怖くて聞くことができなかったのだろう。

さらに、想像を膨らませると、おそらく、森喜朗元首相は、もし聞かれたらきちんと答えると思う。

しかも、実際に、自ら何かを指示したり、圧力をかけたりしたこともなかったと思う。

ただ、影響がなかったのか?というと、まったくそんなことはなくて、多大な影響を及ぼしていたはずだ。

周囲が慮ってるのだろう。

「きっと~というに違いない」とか「~というふうに望んでるはずだ」と、気を遣った結果だと思うのだ。

だから本人は指示しなくても、結果的に、彼の希望する方向に物事が進んでいく。 その希望だって、それほど強いものではないから、よけい”指示”なんてしたつもりはないはずだ。

でも、気を遣わせた側にも間違いなく責任はあるはずで、気づかないはずもない。

このあたりをあからさまにしないと、今回の問題の全貌は見えてこないと思う。

…というより、組織で起きる問題の多く(というより、かなりの場合)は、実力者に対して慮ったことによる…ということ収斂するんじゃないか…って、いつも思ってしまう。

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