迷惑行為はなぜなくならないのか?/北折 充隆

■社会・政治・事件,龍的図書館

 

僕もたびたび記事に取り上げるが、世の中には、さまざまな迷惑行為がある。

本書では、その「迷惑」というものを、さまざまな視点から考え、検証していく。

本書のプロローグにあったが、最初から、自分が迷惑だと思う行為に対して、「迷惑に決まっている」、「迷惑な行為だ」…と思ったら、それ以上深く考えることはまずなくなってしまうという。

自分の認識を考え直す必要があると指摘。

「感情的にならず、一面的なものの見方をせず、客観的に考えよう」というのがこの本の主張だ。

そもそも。

その迷惑というのは、実はけっこうバランスの上に成り立っている。ちょっと視点をずらせば、正反対になってしまう。

例えば…夜の幹線道路での制限速度。

幹線道路には、もちろん制限速度が設定されているが、特に夜は守られることはあまりない。

これを考えるとき2つの概念を利用する。

常識的、社会的なルールのことを「命令的規範」と呼び、みんながやってるから正しいとするのが「記述的規範」と呼ばれる概念だという。

この制限速度が「命令的規範」とすると、制限速度をオーバーした多くの車の速度が「記述的規範」となる。

興味深いのは、どちらの規範に準拠するかによって、「迷惑行為」の見え方が変わってくるということだ。

「制限速度で走っているのが正しい」vs「車の流れに乗って走るのが正しい」の対立となる。

ただ多くの場合、制限速度をオーバーしている状況を見ると、「記述的規範」の影響の方が強いことが分かる。

横断歩道の信号機、通勤電車の車内なども同様に、「記述的規範」に支配されている。

こうなってくると、その場を変えるというのは、かなりの勇気を必要とするため、場合によっては迷惑行為の黙認という結果につながってしまうことに注意する必要がある。

昨年、大きな話題になった、USJでの迷惑行為やコンビニや飲食店で冷蔵庫に入ってツイッターに投稿した騒動なども、実はこの記述的規範によるものと考えられるという。

一般から見たら不可解な行為の写真を投稿するのは、彼らが、単純に自分の周囲を喜ばせるつもりということに過ぎない。

(悪い意味で)話題になっていることが、みんながやっていることと捉えてしまっている。自分の想定する「みんな」がごく特殊な人たちであることに気付いていないのだ。

ツイッターのようなツールの出現が、彼らをあぶり出した側面もある。

いくつか印象的だった記述の中でも、もっとも気になったのが、ベビーカー問題を例に、迷惑行為をなくす「落としどころ」だ。

昨年、電車内でのベビーカー使用について、多くの議論があった。

それぞれの立場からの主張は理解できる。

迷惑とは行為そのものではなく、それを他者が不快に思うかどうかという、心理的な要因(p.200)…ということを意識すれば、おのずと見えてくることがある。

つまり、大事なのは、対立する双方が他者へ配慮するということ。

至極当然だけど、意外と忘れがちなことだ。

本書を読んで、「迷惑」というものを、これまで当たり前のように考えてきたが、あらためて、迷惑というものを、体系立てて考える、おもしろい機会になった。

Posted by ろん