4187 いまさら知った目の話
僕は小さなころから遠視で眼鏡を掛けていた。
これで苦労したこともあるし、もしかすると得をしたこともあるかもしれない。
いずれにしても、僕にとって眼鏡はかなり身近な存在だ。
いま使っている眼鏡は、いつごろ買ったのか忘れてしまったが、ふだん使っている分には、特に不自由ないのだけど、最近、パソコンの文字が見えづらく感じること増えてきた。
視力が極端に落ちたという気もしないのだけど、ちょっと気になったので、眼科で診てもらうことにした。
診察していただいた医師によれば、いま使っている眼鏡は、度が合っていないわけではなく、遠くを見るために適した設定になっているという。
そのため、パソコンや近くのものを見るときには、目に負担が掛かり、夕方なと疲れたときなど見えづらくなってきているのではないか?ということだった。
ということで、いま使っている眼鏡とは別に、近くのものを見るとき用の眼鏡を用意した方がいいといわれた。
加齢とともに、目の調節力が弱まってくることは誰にでも起きることで、いままさに自分にも起きつつある…ということ。
見る対象によって眼鏡が変えたほうがいい…という話は、一瞬「?」と思ったが、なんてことはない、遠近両用眼鏡のような例があるわけで、ちっとも特別なことではない…。
けれど、ふと、気になった。
そもそも、遠視とか近視ってなんだっけ?ということ、そして、なぜ見る対象によって眼鏡が変えないとダメなのか?ということとだった。
ネットでいろいろ調べてみると…。
まず、近視は、遠くがぼやけてよく見えないものの、ある程度の距離まで近づくと、はっきり見えるということは、よく知られているし、実際のその認識に間違いはない。
一方、遠視は、ある程度の距離があれば、遠くのものは比較的見える。実際(最近は測ってないが)、視力1.0ほどだったし、そういうもの…という認識だった。
この状態は単純に近視の逆?というだけに見えるが、実は、大きな問題があるということを、いまさらながら知ったのだ。
遠視の状態で、“見えている”というのは、正しい表現ではなく、見えるように“無理をしている状態”だという。
遠視というのは、何も調節をしていない状態(素の状態)のときに、網膜の位置ではなくその後ろに焦点が合ってしまった状態を指す。
ここで気をつけなければならないのは、「何も調節をしていない状態(素の状態)のとき」ということ。
ピントの調節は、目の“水晶体”が行っているが、遠視の場合、遠くのものを見るとき、無意識のうちに、この水晶体を調節することで見えるようにしている…というのが真相だった。


ちなみに近視は、見る対象が近づけば、水晶体の調節をしなくても見えるようになる。

遠視の場合は、物体が近かろうが遠かろうが、常に水晶体の調節をしている状態なのだ。
そして、遠くのものに対しては調節することで見えるようになるが、近くのものは調節の限界を超えるために、そもそも見えない…というわけだ。
ここまでわかると、もう一つの疑問も解けてくる。
見る対象によって眼鏡を変える必要があるかどうかというのは、水晶体の調整能力がどの程度あるか?ということと関連する。
水晶体がピント合わせできる能力が高ければ、眼鏡は比較的遠くのものを見られるようにしておいて、あとは自分の水晶体で見えるように調整すればいい。
しかし、水晶体の調整能力が落ちてくると、遠くは何もしなくてよくても、近くのものを見るには、調整できる範囲を超えてしまう。
だから、近くを見るための眼鏡が必要になってくる…そういう理屈だ。
なるほど…。
自分の人生の大半を眼鏡とともに生きてきた自分として、知らないことばかりだった。
早々に、近いもの見るための眼鏡を用意しようと思う。
目の話だけに、よけい目から鱗が落ちる気分。
以上、ネットや医師の話をもとに、自分なりの解釈でまとめましたが、誤解などもないとも限りませんので、ご了承いただきますようお願いします。