大阪万博/平野 暁臣

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8年前に見に行った太陽の塔1970年に開催されたアジア初の万博、日本万国博覧会…通称「大阪万博」は、実に6400万人が殺到した。

その期間はわずか半年の183日間にもかかわらず、日本人に与えたインパクトは計り知れない。

当時を知らない僕でさえ、心を揺り動かされ、こうした本を手に取ってしまうくらいなのだから。

大判で迫力あるカラー写真で当時を振り返る。

中盤以降は、読み応えのある万博の誕生秘話や、大阪万博に至るまでの万博史など。大判にボリュームのある文章なので、読むのはちょっと大変。

後半には、当時掲載された万博関連の記事タイトル一覧や、レストランのメニュー、売店リスト、パビリオンの詳細、イベントプログラムのリストをはじめ、全183日間の天気、入場者数、入場券販売枚数、駐車台数、施設利用者数、売上金、迷子、尋ね人、拾得物、現金、患者、救急車の出動回数といった詳細なデータも掲載されている。

迷子のなかには、当日帰れずに協会職員が自宅に連れて帰ったケースもあったという。また患者のなかには、亡くなった方が8名、出産した人が1名いたという。
印象的だったのは、Wikipediaにも載っていたが、万博のシンボルマーク決定のいきさつ。

協会理事会で了承されていたシンボルマークが、万博協会会長の石坂泰三の猛反対によって、変更になったという。予定されていた記者会見も直前になって中止された。

「抽象的でなにを表しているのかまったくわからない、子どもや年寄りにもわかるようなものでなければ」「質屋のマークみたいなのはダメだ!こんな貧弱なのはいけない」

幻のシンボルマーク 決定したシンボルマーク

このような国家的なプロジェクトであっても(だからこそ?)、絶対的なリーダーシップを持つ人物が必要なのだということを思い知らされるエピソードが続く。

エキスポタワーが当初、なんと350mもの高さで計画されていたそうだが(p.284)、その後120mに変更されるも、非常に限られた時間で入札に及んだものだから、応札額は、予算の二倍にもなってしまい、とてもプロジェクトを進められるような状況ではなかったという。

博覧会協会も設計を詳しく知る者がおらず、業界からは「権威に任せて催促するだけ」と陰口をたたかれる始末。

協会がなめられていたわけだ。

ここで、また石坂会長が乗り出す。「どうしてもやりとげねばならなぬ大事業をみなさんの手で成功させて下さい」
経団連会長に 「財界総理」の異名を付けられたのは、強いリーダーシップを持つ、石坂泰三がいたからこそで、そんな人物に請われたら、なかなか断れないだろう。

実際、それぞれが、文句や泣き言を繰り返すだけでなく、設計者と一緒になって、踏み込んだことのない施工法を考えるようになった。

その後、予算内に収まることになる。

こうして見ていくと、大阪万博は、かなり人間臭いイベントだったような気がする。

こうして大成功を収めた大阪万博以降、何一つこれを越える万博はなかった。

僕にとっては強い印象に残っている、つくばで開催された科学万博は、、商業色が極めて強くなり、企業館28のうち18館が電通がプロデュースするありさま。

来場者も、目標の2000万人を達成したのは、終了日は前日だったという。

「進む万博体験の日常化」、「時代に追い越された万博」ということも書かれていたが、たしかにその通りだと思った。

「万博は大阪で終わった」(p.252)のかもしれない。

ビジュアル面でも、読み物としても、史料としても非常におもしろい本だった。

 

Posted by ろん