首都高物語/首都高速道路協会

首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち
首都高速道路協会
青草書房 2013-10
by G-Tools , 2014/01/15

 

1962年(昭和37年)12月30日、日本初の都市高速道路として、首都高速1号線の京橋−芝浦間4.5kmが開通。一昨年、50周年を迎えた。

その記念イベントを見学して、もう1年経ってしまったかと、あらためてビックリ。

車は持ってないし、ほとんど利用する機会はないけど、大橋ジャンクションの建設現場に行くなど、個人的には、首都高速道路への関心は高い。

2494 首都高タンクローリー炎上事故で思うこと(2008/08/05)、3380 首都高未成線から浜離宮まで歩く(2011/11/23)、3987 首都高速中央環状品川線の建設現場(2013/12/14)…などなど…。

 

この本は、開通50周年を記念して、計画立案に携わった方々のインタビューやエピソードなど、首都高速にまつわる貴重な話をまとめている。

世界的にも前例のない首都高速道路のグランドデザインが本格的に検討されたのは、1957年(昭和32年)のこと。

終戦後、わずか12年後には、こうした検討が始まっていたことを考えると、都心の交通事情が急激に悪化しつつあることがわかる。

そして、1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開催が決まると、羽田空港と都心を結ぶ路線を最優先に開通させることが至上命題となる。

大変な困難を伴いながらも、予定した区間が開通したのは、オリンピック開催の9日前というのだから驚きだ。

首都高速の実質的な生みの親といわれている、山田正男氏に対するインタビューが興味深い(p.58)

首都高が、上下4車線(片側2車線)になった理由について。

片側3車線にしても、出入口からの車の流入、流出、それに伴う車線変更を考えれば、理論上の通行速度の向上は得られない。だから2車線でも良いんだ。

当然のように感じているけど、なるほど、ちゃんと理由もあったのだ。もちろん、用地確保の観点からも上下4車線にするしかなかった気もするけれど。
景観悪化が指摘されている日本橋の上の高架橋について。

川を干拓して、日本橋の上ではなく、下に高速を干拓しておいて遠そうと検討していた。ところが河川管理者サイドがこれを認めない。さらにその地下を掘って高速を通す時間的な余裕もないことから、高架で日本橋を越えるはめになった。

歴史に“タラレバ”は野暮だけど、もし河川管理者が、日本橋川の干拓を認めていたら、どういうことになっていただろう。

日本橋の上空に高架橋があっても、下に川が流れている方がいいか、上空はスッキリしてても、川がなくてもいいか…けっこう迷う。

いずれにしても、今のような状況はけっして本意ではなかったというのが真相のようだ。

東京や横浜の風景としてすっかり定着した、レインボーブリッジや、横浜ベイブリッジ建設の知られざるエピソードは興味深かった。

また、下に水門があって橋脚を設置できない代わりに、ピアノ線で上空にある高架橋から吊り下げる構造にした…という両国ジャンクションのようなエピソードを見ると、たとえ前例がなくても、自由な発想で実現にこぎ着けてしまうというパワーを感じた。

興味深い話が盛りだくさんだが、ちょっと残念なのは、写真が少なめということだった。

また技術的な説明の場合でも、文章だけで図がないため、理解するのにちょっと手間取ってしまうのが惜しい。

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