フクロウのいる部屋/高木 尋士

以前、ゴールデンハムスターの“さく”を、ペットショップで見つけたとき、ごく自然に、フクロウが佇んでいたので、飼えることは知っていたが、ペットとしては、それほどメジャーではない。

ただ、あのとき、ちょっと見ているだけでも、表情が意外と豊かで、飼ってみたら楽しそうだなぁ…とも思ったが、これはあくまで一瞬の気の迷いだと自分に言い聞かせた。
なぜなら、フクロウの餌は、ねずみやうずらだからだ。 これからハムスターを飼おうというのに、それを餌にする生きものを飼うことなどできようか。
ずっとフクロウに惹かれてきた劇作家の著者が、フクロウが飼えることを知り、ペットショップを探し歩いて、ようやく一軒のお店を見つける。
そこでフクロウのためなら商売は二の次という店主に出会い、フクロウの卵を予約する。生まれたフクロウは、ココロと名付けられ、著者の自宅に引き取られる。
ココロとの生活は、試行錯誤の連続。それでも、夢にまで見たフクロウとの生活は、著者にとっては、素晴らしいものだった。
そして、2年目のゴールデンウイークに事件は起きる。ココロが逃げ出してしまったのだ。
さくでも同じようなことがあったこともあり、焦り、不安、悲痛さが、文章からよく伝わってきた。
いまでも著者のフクロウが登場するブログが更新中なので、最終的に見つかるということはわかっていたが、それでも、読んでるこっちまで心配になってきた。
さらに、その後、驚愕の事実が発覚…。
1羽のフクロウに翻弄される著者の姿は、自分のハムスターに翻弄される姿と重なる。
話は前後するが、冒頭の記述が、心に残った。
動物の自由を空間的にも時間的にも人間が制限し、彼らの生活、野生、本能などに、人間がいいように干渉する。飼い主が望む方法と手段がとられる。彼らの命は、飼い主の一存に委ねられる。(p.20)
それは特別なことではない。
けれど、大袈裟かもしれないが、動物を飼うというのは、そういった「事実」受け入れた行為なのだ。
あらためて、動物を飼うということの、責任を感じた。