3310 とらわれの聴衆
鉄道ジャーナル2011年7月号で、鉄道と法律との関係を紹介するコラムで、興味深いことが書かれていた。
以前から、電車内で流れる広告放送がうるさいと指摘してきたのだが、これが裁判人なったことがあるという記事だった。
1978年(昭和53年)、大阪市営地下鉄の乗客が、大阪市(交通局)に対して、商業宣伝放送(広告放送)をやめるよう、大阪地方裁判所に訴えたのだ。
「聞きたくないもの」を無理やり勝手に聞かされることが苦痛であり、商業宣伝放送の中止と慰謝料を要求したという。
まさに、僕が言いたかったことそのものだった。
しかし大阪地裁は、乗客の請求を棄却してしまう。その後、大阪高等裁判所、さらに最高裁判所でも争われたのだ。
1988年(昭和63)年12月20日、最高裁で判決が言い渡された。
主 文
本件上告を棄却する。 |
やはり…そりゃいまでも、これだけ広告放送が堂々と流されてるんだから、違法なわけはないよな。
実は、この最高裁の判例とその補足意見は、けっこう有名らしい。
判決の補足意見で、聞きたくない音を聞かされることは、プライバシーの侵害になる可能性があるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れないとした。
理屈の上では、聞きたくないのであれば、地下鉄を利用しなければいいのだが、もちろん、そうういわけにはいかない。利用せざるを得ず、聞かされてしまう状況を「とらわれの聴衆(聞き手)」と呼び、違法性がないとは言えないとしたのだ。
つまり、広告放送は問題がまったくないとは言えないけど、公共の場では我慢しなよ…ということなのだ。
まぁ、わからないでもない。でも、うるさいものはうるさい。
そう思う人もいるのだから、そういう人への配慮だって、あってもいいのでは…とは思ってしまう。
その配慮って具体的には何?と言われると困ってしまうけど。
でも、気にならない…って人が、多いのが実情だし、この国では、僕のような、とらわれの聴衆にとっては我慢しかないみたいだ。