2652 議論を尽くすということ

物思いに耽る(雑感),社会・政治・事件

携帯電話や定期券と一緒に、ほぼ肌身離さず持ち歩いているものがある。

10年以上持ち歩いてるが、活用されてないのは幸い

臓器提供意思表示カードだ。

署名したのは1999年2月25日で、もうかなりボロボロになってきた。基本的にはすべての臓器の提供の意思表示をしている。自分自身とって回復の見込みがほとんどない脳死は、“死”そのもので、誰かに生かしてくれた方がいいと思っているからだ。

しかし、これが家族のこととなると、そう簡単に割り切れるものではないのも理解できる。

臓器移植法改正案A案が、衆議院本会議で可決され参議院に送られた。

これまでは「脳死≠死」ではなく、脳死になった場合の臓器提供は、あくまで自分自身の明確な意思表示があることが前提だった。しかし、今回参議院で可決されたA案では、前提条件として「脳死=死」となったわけで、死について、ずいぶん踏み込んだ定義となっている。

僕の考えでは、死に対する考え方は、ひとそれぞれあるのだから、一律で縛るのではなく、客観的な評価の元柔軟に対応できるようにすべきだと思う。もし家族がそういった状態になったら、かなり悩むだろうが、今回の改正案は賛成だ。

たしかに前提条件は変わるものの、なにも家族の反対を押し切ってまで、脳死状態の人から臓器移植をするわけではないというのは、これまでと変わらない。「脳死≠死」と判断する家族は、これまでどおりでいい。意思表示ができないまま脳死状態になった人の臓器を生かすために、こうした法律の整備は必要なのだ。

今回の法律が成立すると、意思表示が難しかった小さな子供からの臓器提供に道を開くことになるため、この法案を支持する声も多いが、反対する声も少なくないようだ。

“議論が尽くされていない”というのが反対派の意見で散見されるが、「議論を尽くす」とはどういうことだろう? 人の死のような倫理観は、議論を尽くすことで変わるものだろうか?

“○○ちゃん募金”のように有志が集まって海外で移植できる人はいい。病気は大変不幸だが、ある意味恵まれている。そういった恵まれた環境下にいない限りは、国内で救うことすら許さないということだろうか?

もちろん「脳死=死」と考える人たちの力が強まって、臓器移植を強要する変な圧力を掛けるようなことのないようにする配慮はとても重要だ。脳死状態になった本人が意思表示できない以上、残された家族の意志が最大限に尊重されるべきだ。

議論されているこの瞬間も、助けたいと思う人の思いは伝わらず、助けられるであろう命が失われているということを忘れてはいけない。

Posted by ろん