ニッポンには対話がない/北川 達夫 平田 オリザ

■文学・評論,龍的図書館

4385363714 ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生
北川 達夫 平田 オリザ

三省堂 2008-04
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教育先進国としてしられるフィンランドの教育を紹介している北川達夫氏と、TBSブロードキャスターのゲストコメンテーターとしても知られる劇作家の平田オリザ氏による対談。

今の日本にはさまざまな問題が氾濫している。いずれも簡単には解決しない問題ばかりだ。

そんななか、未来を担う子供たちへの教育に力を入れることが、問題解決のきっかけになりうるということは、誰もが認めることだと思う。しかし、その教育すら、大きく揺れている。

対談では、とても示唆に富むこキーワードが次々と挙げられ、今の教育ばかりでなく社会全体の問題解決の糸口が見えてくるような気がした。

学ぶということは「無条件で理解させる」ことではない。「戦争はだめだ」というのではなく「なぜ、だめだとわかっていても、戦争が起こってしまうのか」とを考えるようにしないといけないという。理想論だけで解決しないあらゆる問題で言えることだ。「大人の社会ではいろいろある」といった感じで、ぼやかしてはいけないのだ。(p.25)

よく「本当の自分を探す」という人がいるが実際にはそんなものはないという。「自分を演じるに疲れた」なんていう人もいるが、そもそも、立場や状況によって、いろいろな役割を演じるのがふつうなのだという話には、なるほどと思った。役割を演じていく中で、自分なりの自分?を見つけていくということなのかな?(p.31)

これから人種を越えたコミュニケーションがますます必要になっていく時代になる。これも誰も異論の挟む余地はないだろう。しかしそうしたことが、今の学校教育で教えられているだろうか? 子供たちはもちろん、大人だって人種や宗教という存在について、きちんと理解できているかどうかは疑問だ。もちろん僕も含めて。まず大事なのは、コミュニケーションの前提として、相手にとって何が絶対的に嫌がるかを知ることが大切だという。いじめの問題をニュースなどで見聞きするたびに理解不足を実感する。(p.182)

クレーマーとか、モンスターペアレントといった人たちの“活躍”ぶりは毎日のように伝えられている。こうしたとたちの発生は、地域社会の重層性がなくなってきたことによるのではないかと指摘する。

重層性のある社会では、一方的に糾弾するということはできなくなるはずなんです。人前で発言するということは必ずリスクを伴うから。それによてわたしたちは大きなリスクを回避してきたはずなんです。さまざまな要因を天秤にかけながら、言わなきゃいけないことは言う、ここは抑えるというよなことの調整機能が自動的に働いてきたはずなんだけれども、そうした重層的なコミュニケーションの場がなくなってしまった。(p.67)

リスクなしでものが言えるようになったという説は非常に納得できる。これはインターネットの世界でも言えることで、たとえば、いわゆる「学校裏サイト」のようなものができて、特定の相手をいじめるなんてことも起きてしまっているのだ。

教育に携わる関係者はもちろん、あらゆる人たちに読んでもらいたい本だと思った。