1988 言えないだけなんじゃないの?

定点観察

北海道滝川市の小学校の教室で、昨年の9月小学6年生の女の子が首をつり、その後亡くなったというニュースの詳細がにわかにクローズアップされるようになった。

 母親は「学校側は事実をうやむやにしている。いじめを認めてほしい」と訴える。市教委の千葉潤指導室長は「(遺書にある)無視が即、陰湿ないじめに結びつくとは思わない。遺書の中身自体は学級でよくあること。原因は今も調査中だ」と話している。Yahoo!ニュースウェブ魚拓によるキャッシュ

いじめがあったかどうか確認できないとする学校側の態度が波紋を呼んでいる。
彼女の遺書を読んでいるだけで、胸が締め付けられるような思いがした。どんなにつらかったことだろう。
この遺書を読んで、彼女の悲痛な叫びが伝わってこないのだろうか? 普通の人間ならば何も伝わらないということはないだろう。

そう遠くない将来、「いじめがあったかどうか確認できない」 なんていうつまらない言い訳を釈明し、謝罪する日が来るだろう。いまは、その日までの時間稼ぎをしているに過ぎない。

本当は知っているんでしょ? いじめがあったということを。
けれど「いじめに気づかなかった」とも言えず、結果的に「見て見ぬふりをした」とも言えず
…そして「まさか死ぬとは思わなかった」と言えないだけなんじゃないの?

Posted by ろん