司法のしゃべりすぎ/井上 薫

■社会・政治・事件,龍的図書館

4106101033 司法のしゃべりすぎ
井上 薫

新潮社 2005-02
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 裁判の判決が報道されると、その判決内容そのものと同じくらい、いやそれ以上に判決理由が注目を集めることはよくある。この本の冒頭で、こんな例を挙げている。

 Y氏は被害者V氏を殺した容疑者として警察の取り調べを受けたものの証拠不十分で、不起訴処分となった。その20年後V氏の子であるX氏が、Y氏がV氏を殺した犯人であるとして損害賠償を求めて裁判をおこす。結果は「請求棄却」。殺していないと主張するY氏にとっては、当然の結果…と思いきや、その判決理由の中に、認めるわけにはいかない内容が書かれていた。
 「Y氏はV氏を殺してはいるが、損害賠償請求できる期間を過ぎているため、請求棄却」
Y氏の殺人を裁判所が認めたことで、X氏は満足し、控訴しないとした。
 損害賠償請求という裁判で、そもそも請求できる期間を過ぎているというのであれば、そもそも結論がはっきりしているはずで、Y氏が殺人を犯したかどうかを検討する必要はないというのが、著者の主張だ。これを司法のしゃべりすぎ=「蛇足」と言い切っている。

 本書はその「蛇足」の問題を問うている。殺してもいないY氏はとんだ迷惑を被った…ということになっているが、(冤罪かどうかは置いておいて)これが実はY氏は殺人を犯したというのが事実だとしたらどうだろうか?息子のX氏にしてみたら損害賠償請求はダメもとで、父親を殺した犯人を裁判所に認めてもらいたいという思いはあるだろう。

 本書では他にもさまざまな「蛇足」例を挙げているが、誰にとって蛇足なのか?ということをもう少し考えてもいいのではないかと思った。もちろん、裁判所は膨大な案件を抱えていて、審議が長期化する傾向にあるいったんが、こうした蛇足にあるのかも知れないが、もしこの蛇足がなかったら、X氏のような人は救われないということになる。戦後補償訴訟や、現行の在宅投票制度の問題など、法律の文面だけで片付けられない問題はたくさんある。そうしたものを裁判所がどう判断するかということは、決して蛇足ではないと思うのだけれど。
 
(2005/6/1) 【★★☆☆☆】 -05/6/5更新