鉄道 |
旧東京第二陸軍造兵廠専用線跡をめぐる
自宅からそう遠く離れていないところに、かつて鉄道が走っていた…以前図書館でもらった区の情報誌にそんなことが載っていた。身近にそういうことがあるというのは、なんだかワクワクしてくるものだ。でも短い文章だけでそれ以上詳しいことが書かれていなかったこともあり、しばらく忘れていた。 その後、何気なく手にした「鉄道廃線跡を歩くII」という本に、見慣れた風景と地図が載っているのを見て、自分の足で歩いてみよう、確認してみよう…ということで、まとめたのが、この企画。取材を始めたのが2004年2月なので、ここまで仕上げるのに半年以上もかかってしまった。時間の掛かった割には、あまりおもしろくないかも… |
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この軌道跡はそのまま続いて、フェンスの向こうへ。フェンスから先は野口研究所の敷地(写真右)。 |
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軌道は愛誠病院の脇の坂道を上っていく。ここも一方通行の細い道だ(写真右)。この坂道を機関車が上がっていくのは大変だっただろう。 |
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軌道は右から左のように架けられていたと思われる。手前の橋脚跡は先ほど上がってきた坂とそのままの高さでつながっているが、渡った先は完全に軌道跡がなくなってしまっている。現在は都立北養護学校。 |
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埼京線を渡り、北養護学校の横切った先は、都立北療育医療センターになっていて、ちょうどその敷地に入ったところから、やはり軌道跡を思わせる歩道がある。さらにその先には、北区立中央公園と続く。このあたりにこういった公共施設が多いのは、旧陸軍の施設が多かったためだろう。 軌道はこの先で本線と滝野川方面への支線に分かれる。 |
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この軌道跡でもっとも有名なのは、この「憲兵小屋」だろう。この軌道が紹介されているサイトや本では必ず紹介されている。これほどはっきりとした遺構はここくらいだ。 言われてみなければ、ただのコンクリートの古い小屋にしか見えない。この斜め前にはスーパー「サミット」があって結構賑やかだ。 60年以上も前、ここに、その名の通り警備するための憲兵が詰めていたのだろうか… |
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この軌道のもうひとつの見どころは、東京砲兵工廠の紋章の入ったトンネルの入口。 でもこのとおり、工事中のために防護壁で囲まれてしまい、実物を見ることができなかった。ここの様子は壁に描かれた遺構の絵だけだ。 最初に訪れてから半年経って、また来てみたが、まだ工事中だった。工事完了の予定を見ると、2005年5月らしい…ちんちん山という名前は、やはりこの専用線に由来するもので、ここを走る鉄道が「チンチン」と鐘を鳴らしながら走ったことによるらしい。現在は道路が陸橋の形で東北本線と道路を越えていくが、当時はこの道路の代わりに専用線が、築堤と鉄橋になっていたらしい。この築堤を一般の道路が抜けるためのトンネルの入口がこの遺構だ。早く実物を見てみたいものだ。 |
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陸橋を越える。陸橋の上にはさらに東北新幹線の陸橋が通っている。この陸橋ができた10年ほど前までは、この築堤が残っていたというのだから、見てみたかった…。 当時の様子を伝える説明版にあった写真(下右)と、現在の様子(下左)を並べてみる。 |
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北本通りと呼ばれる通りと交差する。参考資料によるとこの通りを通っていた都電をやはり築堤でこしていったそうだ。築堤はおろかここを鉄道が走っていたことを思わせるものは何一つ残されていない。
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さらに進んでいくと、ふたたび石神井川を渡る。この橋を最後に石神井川は隅田川に流れ込む。 もちろんこの橋は専用線当時からの橋ではなく、その様子を伝えるものは何もない。ただ工場や倉庫、ちょっと向こうには団地が目立つ。 板橋側の遺構のような手がかりは何もなかった。 |
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取材 2004/2/15〜10/02
作成 2004/10/02