2008年2月27日(水曜日)
電車の中で、携帯電話での通話が不快に感じる人が多いのは? 人はふだん自分の耳に入ってくる会話に無意識のうちに参加しているのに、携帯電話だと、それができなくなってしまうという違和感からくるのではないかと考えている。これはあくまで僕の仮説。
最近、急に不快に感じるようになったことがある。それは電車やエレベーターといった閉じられた空間の中で、ガムをクチャクチャと噛む音だ。似たような例で他人の食べ物を噛む音が気になるという人も多いのではないだろうか?
それにしても、どうしてこうした音をが不快に感じられるのだろうか?その理由がわかれば何らかの対策が考えられそうなのだけれど。
携帯電話の場合は、話している相手の会話を予想して、会話の足りない部分を補う。すると、あら不思議!?、不快に感じるどころか、推理を楽しめるようになるではないか。
一方、食べたり噛んだりする音は、どう対応したらいいのだろう…と思いながら、今日もまたその不快な音を我慢しながら聞いている。
2008年2月19日(火曜日)
朝、おびただしい人々が改札口から溢れ出てくる。その人たちをぶつからないように、僕は右へ左へと交わして進んでいく。それはまるでラグビー選手のように。
地下鉄の階段。ホームから吹き上げてくる風は、ホームに降りようとする僕の身体をを持ち上げる。それはまるでスカイダイビングのように。
駅から会社へは遅刻しないように急ぎ足で向かう。でも、急いでいるからといって走るほどではなく、あくまで早歩き。それはまるで競歩のように。
通勤はスポーツだ。
2008年2月17日(日曜日)
イライラした直接のきっかけというか原因は、ここしばらく忙しかったからだ。
こまごまとした仕事が重なり、自分の思うように物事が運べなくなってしまったことによるフラストレーションが溜まった状態になっていた。それが周囲に対するキツい言動につながったのだろうと、自己分析。
ちょっと落ち着いてみたら、なにもそんなに慌てることなどなかった気がしてきた。それに周囲の目を気にして、焦りを感じる必要もなかったような気がしてきた。
ここのところ記憶力の低下が著しく、そのために細かなトラブルを起こしてしまっているけど、あまり気にしないようにしよう。とりあえずやれるだけのことはやっているんだし。
ふと、こんな名言?を思い出した。
「身の上に起きたことは全て正しい」
物事はすべて理由があって起きるので必然なのだ。もちろん偶然に発生するために防ぎようがない問題もあるが、それはそもそもそうした事象は防ぐことはできないという必然でもある。
現状の不遇やトラブルを嘆くのではなく、その起きた事象に対して、どうしていくかを優先して考えてみることで、ちょっとは前向きな自分でいられそうな気がしている。
2008年1月15日(火曜日)
以前から、「何が一番楽しかったか?」とか「何が一番悲しかったか?」といった質問に答えるのは苦手だ。
別に、感情の起伏が少ないわけではなく、楽しいことは楽しいと思うし、悲しいときは悲しいと思う。けれど、どうもそれを記憶する際に、平板化してしまうようだ。もちろん、すっかり忘れているわけではないし、そのときに何が起こったこということを思い出すことができたとしても、そのときの気持ちの変化はかなり忘れがちだ。
この問題は、寝るときに見る夢にも影響していると思う。僕は昔から夢はしょっちゅう見る。しかし、その内容はくだらないものばかりで、見てよかったと思う夢は、まずないと言っていい。
そうなると、少し不安になることがある。以前も書いたが、死ぬ直前に見るという“走馬燈”のこと。これを自分の人生の“ダイジェスト版”の夢だと仮定すると、このままでは、まったく期待できそうにない。
感情の記憶が弱いというのは、人生を過ごす上ではもちろん、人生を終える直前においてでも、つまらない…なんてことになるわけだ。
いまから、感情の記憶を鍛えることってできるのかな?
2007年12月24日(月曜日)
誤解を恐れずに言ってしまえば、いまの仕事は、一所懸命やっても、逆にサボってやらなくても、実は評価はそう大きく変わらない。もっと極端に言ってしまえば、これまで仕事で評価された記憶はほとんどないのだ。
もちろん、会社が仕事として要求したことを僕が達成していないということもあり得る。しかし、そういった指摘をされたことはないのだから、どうしようもない。まぁ、会社の意向で制度ばかりどんどんと変わってしまう状況で、評価する方も大変かもしれないけど。
いまの、自分のモチベーション(やる気)を支えているのは、給与なんかじゃなく、人に迷惑を掛けたくないという思いだけと言っても過言ではない。それだけで、よく頑張っているなと自分で自分を褒めてあげたい。
きちんと評価されたかったり、もっと給料が欲しいのだったら、もっともっと頑張れということなんだろうが、残念ながら、そこまでの気概を持ち合わせていないので、あしからず。
ここ最近、原油高などによる値上げラッシュが続き、上向きつつあった景気もどうなることかわからないこのご時世で、お仕事をさせてもらい、お給料をいただけていることだけでも、ありがたいと思わなきゃいけないのかもしれないが…
今年最後の一週間。明日から、また頑張ろう。
2007年11月08日(木曜日)
世の中にこれだけたくさんの人がいるということは、当然のことだけど、この同じ数だけの人が死んでいく。そして、ごく当然のことのように「死」からは完全に隔離されている。ふだんの生活の中で、死というものを感じることは、まずあり得ない。
先日のニュースだが、すごく身近な場所で、あり得ないような事故が起きた。
警視庁池袋署は女性が屋上から飛び降り自殺を図り、下を歩いていた男性を直撃したとみて調べている。

この写真は9月8日 |
屋上から身を投げた人のことや、不幸にも接触して重傷を負ってしまった人についても、いろいろ思うところはあるが、それとは別に不思議な違和感みたいなものを覚えた。
ここは、ビックカメラとか東急ハンズなどへ買い物に行く際、よく歩く場所だ。何を買おうか悩むことはあっても、死というものを意識することなんてあり得ない場所だった。
賑やかな都会のど真ん中で、突然突きつけられた死。
死というものが、実は、すぐ隣り合わせにあるということを見せつけられたような気がした。
2007年11月07日(水曜日)
「気持ち」や「考え」を完全な形で相手に伝えることは、どんなに科学が進歩してもおそらく絶対にできないことだろう。
これからもずっと、言葉や文章、身振り手振りを使って、相手に伝えるしかないわけだ。つまり、何らかの”媒体”に変換して伝える以上、微妙にずれて伝わることは覚悟しなければならない。
だから、自分の「気持ち」や「考え」をわかってくれないのは当然のことなのだ。
そして、仮に伝わったとしても、その考えに共感するかどうかは、全く別の問題。自分の考えに共感してもらうというのは、かなり高いハードルだということがわかる。
会社での打ち合わせ。自分の主張がなかなか伝わらなかった。
つい少しばかり腹を立ててしまい、語気を荒げたり、少々汚い言葉を使ってしまったかもしれない。強い口調で言ったら、多少威圧することはできるかもしれない。その場を黙らせることができるかも知れない。でも、それだけのことだ。最終的には共感してもらいたいにもかかわらず、むしろ遠回りをしてしまう。
うまく伝わらないと焦れったく感じたら、深呼吸でもして、まずは落ち着くこと。
2007年10月24日(水曜日)
眼鏡を掛けているくらいだから、もともと目はいいわけではない。でも、眼鏡を掛けているおかげで普段の生活で不便を感じることは全くなかった。
しかし最近、明らかにこれまでと違ったことが立て続けに起きている。
携帯電話の文字が読めない…
会議などで配られる資料の文字が読めない…
もちろん漢字が読めないっていうのではなく、文字が小さすぎて読めないのだ。以前はそんなことなかったのに。
少しずつ年齢を重ねていけば、これも致し方ないのかもしれない。そういえば夜は早く眠くなるし、朝は相変わらず早い…自分のみに訪れている現実を受け入れることも必要なのかもしれない。
できれば前向きな感じで。
その表現も雰囲気を変えて…老化? いえいえ“エイジング”です。
2007年10月02日(火曜日)
友人や同僚などとの会話の中で、「僕自身(=個人)」のことを意識する機会あまりないが、ここ最近会社で立て続けに言われた。
先日
「○○くんって動じないよねぇ…」と、しみじみ言われたときには「えっ僕のこと?」とビックリしてしまったが、どうやら僕のことを言っているようだった。周囲の物事に対して悲観的で小心な性格の自分がそう言われたことに、ちょっとびっくりした。もちろんこんなことを言われたのは初めてだった。
ただ、周囲を無用な不安に陥れたり、心配をかけさせたくはないという気持ちは強い。だから、仮に内心はドキドキしたり、不安を感じたりすることがあっても、外見はそうしたそぶりを見せないよう多少取り繕っているというのはある。それに多少のことで動じない性格に憧れているということもあって、それを“演じる”部分がなかったとは言えない。
それだけに、しみじみと言われた一言は、ちょっと嬉しかった。
今日
「○○さんって波があるんですよ…」と、ディスカッション中に言われたときには、ちょっと心当たりがあった。
先日行われた映画の舞台挨拶における沢尻エリカの一件ほどではないが、確かに多少テンションの変動はあって、テンションの低いときと高いときの差が激しい気はしていた。でも、これも先述と同じで、周囲に無用な心配をかけることは避けたいので、ときどきテンションが低いときでも、できるだけ普段と同じようにしたいと努めていたつもりだった。
しかしこの件については、明らかに“バレて”いたのだ。
気をつけてはいたのだけど、まだ注意が足りないのかもしれない。まぁ、もっとも自分をすべて押し殺す必要はないが、ある程度の“自分の品質”を保てるよう今後精進していきたい。
2007年8月30日(木曜日)
何気ない生活の中であっても、多かれ少なかれ、人とのつきあいはというものはあるわけで、避けるわけにはいかない。
相手によっては、相性が良いと感じる人や、逆に悪く感じる人もいる。
また、相手によっては、自分の人間的な成長を促してくれるような人もいるし、逆に成長の芽を摘んでしまうような人もいる。
これは相性の良さとは、まったく別の次元のことで、相性が悪くても自分の能力を伸ばしてくれる場合もある。こういう人の多くは、自分にないものを持っているがために、取っつきにくさを感じることもだろう。そうしたことに対する違和感が、相性の悪さとなって表れているのかもしれない。だから、相性が悪いというだけで、最初からそうした人を避けていたら、自分の成長を鈍らせることにもなりかねない。
一方、逆のパターンもあり得るだろう。相性が良いからといって、自分の成長が促されるとは限らないわけだ。
話がまとまらなくなってしまったけど、要するに、いろいろな人の声に耳を傾けなきゃダメだな…ってこと。