道徳教育は「いじめ」をなくせるのか/藤川 大祐

“いじめ”に関するニュースは、見聞きしない日はないのでは?と思えるほど多い。

いじめは、自分が小学校や中学校に通っていたころからあったし、状況は変わってないどころか、むしろ悪化してるのではないか?とすら思えてくる。

いじめの問題は、注目され、多くの人たちにとって関心も高いはずなのに、一向に減らないのは、一体どういうことなのだろうか?

法律に、きちんとした定義があるとは知らなかった。

いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)
第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。) であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

本書の中でも指摘しているが、かなり思い切った内容で、行為を受けた者が苦痛を感じれば、たとえ行為を受けた側に非があったとしても、いじめになる。

これは、セクハラやパワハラといった定義にも通じるものがあるが、行き過ぎてしまうと、行動を委縮させてしまう恐れもあり、著者は、再定義した方がいいのではないかと指摘する。

いくら、被害者寄りに定義を決めたとしても、あまりにも現実とかけ離れてしまうと、本当に必要なときに顧みられなくなり、実効性がなくなってしまう気がする。

先の定義に「容易に解消しえない心身の苦痛」や「教員の指示に従ってなされた行為を除く」といった現実的な提案は、とても意味のあることだと思った。

ニュースなどで、いじめをしたとされる生徒から話を聞けば、たいていは「いじめをするつもりはなかった」「相手が嫌がっているとは思わなかった」「ふざけていただけだった」と、いじめを否定する。

著者は、加害者側が、いじめが悪いとわかっているからこそ、こうした主張をするのだという。

言われてみればその通りだが、いじめを防止する教育においては、いまだに「いじめをやめよう」的な考えが中心にあるような気がしてならない。

加害者側の学ばせるべきことは、いじめをしてはいけないではなく、行為者の意図を越えて行為が相手をひどく傷つけることがありうることや、このように相手を傷つけることを避ける努力が求められることでなければならない(p.79)

さらに問題は、学校という組織そのものにもあるのではないかと指摘する。

これまでの学校では、多種多様な児童生徒を固定された学級や部活動に包含される集団として組織し、その中で、「仲良く」なることを求め、行事や大会のために協力することが強要されてきた。(p.126)

振り返ってみれば、自分も無条件にこの考え方を受け入れてきた気がする。

このあたりが、いじめが一向に減らない原因なのかもしれない。

いじめを発生させ、深刻化させてしまう背景には、学級や部活動等の閉鎖的な共同組織体において、組織内の規範に従わない者には、容赦なく攻撃が与えられてよいとする歪んだ論理が支配していることがある。(p.174)

こうした考えが、組織に蔓延すれば、「いじめられる方が悪い」とか「いじめられる側に原因がある」という正当化がまかり通り、私的制裁を是とする空気にすらなりうるのだ。

本書では、道徳教育にけるこれまでと今後についてや、いわゆる”スクールカースト”など、いじめをとりまく諸問題を取り上げつつ、いじめをなくしていく方法についても、かなり具体的な提案をしている。

いじめをなくす行動の中心は、もちろん教師であり、教師の考え方を変えていくことがいじめをなくしていくことにつながる。

なかでも印象的な指摘は…

態度が予測されてしまう教師はいじめを生む空気を壊せない教師(p.197)

ある種の予定調和のなかで、いじめは行われる。これを壊していくことが、いじめをなくす方法のひとつという考え方は、なるほどと思った。

大人の世界でも、平然といじめは行われ、つらい思いをしている人は決して少なくないはずだ。

大人であれば、まだ自分で動くことができるが、身の回りが世界のすべてである子供たちにとっては、いじめは、それが世界のすべてとなり、地獄そのものだ。

少しでも、いじめで苦しむ子供たちが減るよう、本書が多くの先生たちに読まれてほしいと思った。

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